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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
    四 山徒・山伏の請負代官
      河北荘と太良荘の代官
写真114 川北荘番頭百姓等申状(醍醐寺文書、部分)

写真114 川北荘番頭百姓等申状(醍醐寺文書、部分)

 醍醐寺三宝院領吉田郡河北荘(河合荘)の所務代官山徒西縄坊が応安四年(一三七一)に下向してきたとき、荘の番頭・百姓たちは西縄坊が先年に行なった非法の数々をあげて改易を求めている(資2 醍醐寺文書六〇号)。西縄坊は守護方に荘民のリストを提出して守護の有徳銭徴収に協力し、年貢を収納しておきながら荘民の未進を言い立て、科のない荘民から科料を取り、先例のない近江の大橋までの人夫を徴発するなどの非法を行なったとされているが、西縄坊にとって「所務」とは自分の懐を肥やすために取れるだけ取るということを意味した。観応元年(一三五〇)に日吉二宮彼岸結衆の代官として越前保(所在地未詳)を所務しながら、年貢を押領したとされる十方院叡運も同様の所務代官とみてよかろう(資2 八坂神社文書四・五号)。
写真115 石見房覚秀太良荘綱丁職請文(ツ函四三)

写真115 石見房覚秀太良荘綱丁職請文(ツ函四三)

 太良荘において地頭方代官が「給主」とも呼ばれ、単に得分を得るに過ぎなくなっていくと、現地には地下代官が置かれるようになる。康安元年(一三六一)以後の主な地下代官として法師丸・教実(禅朝)・朝賢(朝禅)・禅慶の名が応永二十年(一四一三)までみえているが、彼らはみな小浜の高利貸で熊野三山供僧でもあった石見房覚秀とつながりのある人たちであり、教実以下はまた山伏であった。
 太良荘において山伏代官が活動するようになった背景は次のように考えられる。小浜の高利貸石見房覚秀は鎌倉末期より熊野社の初穂米を利用して荘家や荘民に対して銭貨を融通しており、その結果南北朝末期には覚秀と その跡を継いだ讃岐房祐秀は太良荘内で薬師堂別当職・太良宮(丹生社)宜職・小野寺別当職を手に入れ、また宗安名・助国名・定国名・時沢名において半名ないし四分一名の名主職をもっていた(ツ函四三、し函三七、オ函五九)。覚秀はこれらの権限を確保するために地下代官として教実以下の山伏を送り込んだものと考えられる。したがってこの太良荘の山伏代官は都市の高利貸が農村に対する支配を、より現地に根づいた形で維持していこうとする動向としても理解されなけばならない。
 これら山僧(山徒)や山伏の代官は金銭収取においては貪欲であったが、それも河北荘でみられたように惣百姓の強い抵抗を受けた。またこれまでの武士代官が行なったような手作地の拡大や、検断権を行使して荘民の身を拘束し、はなはだしい場合には売却するなどの行動はみられなくなっていく。彼ら代官は惣百姓中に介入して取得分を増やすことよりも、和市の米価を偽って荘園領主への納入分を減らし、自分の取得分を増やそうとするようになる。



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