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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
    一 名主職相論
      法阿と真村名
 東寺に敵対した得宗地頭代から名主職を得た名主は、東寺に対し「不忠」を働いたものとみなされた。だから名主職を確保しようとする実円は、先祖が東寺に随従して地頭の横暴から荘園を救った三人百姓の一人(時沢)であることを強調し、鎌倉幕府滅亡後ただちに上洛して、太良荘が東寺一円所領になるよう努力するなどの「忠勤」を尽くしたことを東寺に繰り返し述べているのである(ヱ函四七、ゑ函二九)。それゆえ実円らが東寺に訴えた文書には東寺の権威に対する追従の言葉が少なくない。
 ところが南北朝期後半の名主職相論においては新しいタイプの荘民が現われる。真村名主となった法阿がそれで ある。観応の擾乱後、真村名主権介真良が死に、その跡を継いだ弟の平四郎も盗犯の罪科によって名を没収されて他人に充行われてしまい、残された母や妹は悲嘆にくれていた。このとき親類の法阿は名田回復の訴訟の代理人になってやると話をもちかけて真村名主の遺族から文書を誘い取り、他方で多くの金銭を投入して他人に充行われていた名を取り戻して、預所より真村名主に補任されたのである(ハ函四四、ツ函四二、し函二六)。さらに法阿は権介真良の妻であった真利名主禅日女と結び、権介真良と禅日女との間にできた娘である若鶴女を「強儀妻捕」という強引な手段で法阿の息子の嫁とし、真村名家を継ぐという体裁を調えている(し函二六)。この法阿は、金銭力を背景に逼迫している人びとを篭絡するというやり方で名主職を手に入れており、荘園領主の権威は利用することはあっても、それに忠節を尽くすという考えはなかった。真村名の返付を求める権介真良の家族が「重代相伝」を根拠に訴えたのに対し(ツ函三三、ハ函四五)、法阿は「凡そ天下動乱の間、寺社本所御領、時の権門として押領の条、今に国中平均の法なり」と反論し、武士などによる荘園の押領を肯定し、自らの主張の論拠とする人物であった(し函二六)。
 こののち貞治元年(一三六二)に、法阿は守護方の半済給人に追従してあることないことを注進したとされており(は函一三二)、また同じころ真利名を獲得した乗蓮という荘民も半済方に証文を提出して真利名を安堵されている(つ函二四〇)。南北朝前半期に活躍する実円は、自分の名主職を守るためであれば平気で二枚舌を使うというしたたかさをもってはいたが、東寺に対しては先祖のときより忠節を尽くしてきたという由緒を主張している。それに対し法阿や乗蓮はそのような由緒をもたず、彼らが頼みとするものは現実のなかで既成の事実を確かなものにするという行動のみであった。



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