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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
    一 名主職相論
      名主職の復古
 南北朝動乱期には領主・代官の目にあまる非法・乱妨が目立つが、それとともに従来は比較的平穏であった農村社会においても、有名な『二条河原落書』の指摘するような「自由狼藉ノ世界」が展開していた。相手の過失や窮迫状態に付け込んでその権利を奪うことが広くみられ、遠敷郡太良荘では権利を我がものとするためならば、夜討ち・強盗・待伏せによって相手の証文を奪い取ることも辞さず、果ては一族の土地を奪うために、その証文をもっている女性を強引に息子の嫁にしてしまうなど、それまでの常識や作法を超えた行動が目立っている。この時期に農村社会でおこっていた変化について考えるため、まず太良荘の名主職相論をとりあげて検討したい。
 後醍醐天皇は得宗専制時代を清算する「復古」の理念を掲げていたが、元徳二年(一三三〇)に父によって時沢名四分一の名田とともにその身を売却されて所従になっていた時真はこれを後醍醐の「徳政」と理解し、建武元年(一三三四)二月に所従の地位を逃れるとともに、名の還付を求めて訴えをおこしている(は函九四)。時真の訴えは 荘園領主東寺によって退けられたが、得宗支配時代を清算するという理念は名主層においては失われた名主職回復のための論拠を提供することになった。
 時真の訴えと前後して、荘民の国正が助国名半分を得宗地頭の給主代を勤めたこともある小浜の高利貸石見坊覚秀から取り返そうと東寺に訴え、また安寿時行は父の罪科によって従兄弟の実円に与えられていた時沢名の返付を求め、さらに遠敷郡脇袋の土豪脇袋国広もこの実円から時沢名を奪おうとして訴えている(ヱ函九四、は函八四)。
 太良荘民自らが建武の新政を、「明王聖主」の代となり「旧里に帰す」と述べている(ヱ函四五)。しかし後醍醐が得宗時代の既得権を否定しえず、元弘三年(一三三三)七月に「諸国平均安堵法」を出さざるをえなかったように、東寺もまた得宗時代について一貫した清算原則をとることはできなかった。そもそも相論当事者の論理も一貫しておらず、時沢名主実円は脇袋国広に対しては、たとえ得宗地頭代であれその時々の支配者に従うのが「百姓等習」であるとして、得宗時代の自らの証文は正当化しながらも(ヱ函二九)、他方で安寿時行に対しては得宗時代の証文は証拠にならないと主張しており(は函一〇一)、矛盾したことを平然と述べている。



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