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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    六 若狭応安国一揆の蜂起
      一揆の意義
 右にみたように、守護方にはそれまでたどった歴史からみて一揆方に参加しても不思議ではない武士が相当含まれていた。それは言い換えれば、鎌倉期以来得宗の圧迫を受けながらこれと対抗してきた国御家人ら土着武士たちの絆が、守護との結びつきあるいは郡規模での彼らの結集によって、応安の国一揆が始まるまでにすでにかなりのほころびをみせていたということになる。したがってこの一揆は、それまでの同輩が守護権力の麾下に入ったり将軍との関係を強めていくなかで、そうした道を潔しとしなかった若狭の土着武士たちが、幕府権力を背負った一色氏の圧迫に最後の抵抗を試みたものということができよう。彼らに、例えば守護権力を排除して山門の支援を仰ぎながら独自の地域権力を構築するといった展望があったか否かは定かでないが、ともあれ応安の国一揆の敗北は、若狭の武士にとって進路に関する選択肢の一つがほぼ否定されたことを意味する。そしてそれは同時に、守護一色氏による本格的な若狭支配の幕開けでもあった。一揆方に加わった武士の所領はすべて没収されたが、例えば鳥羽一族のもっていた遠敷郡鳥羽荘内須那浦山のうち、鳥羽氏惣領分が松田豊前守に、庶子今村氏分が守護代小笠原長房の「御ちの人」(乳人か)にそれぞれ給された(秦文書七三号)。守護に抵抗して敗れた一揆方武士の所領の行く末が、ここには象徴的に示されている。今や若狭の諸階層にとって、一色権力は逃れがたい重みをもってのしかかってくることになったのである。
写真110 応安四年の刻銘のある九重塔

写真110 応安四年の刻銘のある九重塔
(上中町曹福寺)



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