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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    六 若狭応安国一揆の蜂起
      守護方と一揆方両軍の構成
 ここで表23によって、両軍の構成メンバーと彼らの性格を探ってみよう。まず地域的にみた場合、大飯郡の武士は知られる限りすべて守護方に参じているのに対して、遠敷郡は一揆方がやや優勢ながらも両勢力が錯綜し、三方郡は一揆方の多いことがわかる。つまり、大きくみれば東西対抗の様相をみせているのであるが、もちろん国人たちの行動を決定したのは地域的条件だけではなく、むしろ彼らがそれまで歩んできた歴史が大きく関わっていたであろう。表では彼らの素性を四種(細かくは五種)に分類してある。すなわち、1鎌倉期に地頭職をもっていた関東御家人の系譜を引く家()、2鎌倉初期の国御家人三三人の系譜を引く家(◎)、および鎌倉期に所見のある1以外の家(○)、3一色氏の守護就任以前の南北朝期に若狭に来住し、のち一色氏の被官になった者(△)、4一色氏の守護就任にともない若狭に入国した者(×)である。この分類に従えば、一揆方のほとんどすべてが、最も土着性の強い2に属する国人で占められていたことは明白である。鎌倉期に守護得宗権力から圧迫を受け続けていた若狭の土着武士の多くが、まだ守護権力に対する抵抗姿勢を保っていたのである。なお一揆勢のメンバーに共通するもう一つの性格として、延暦寺(山門)とのつながりが指摘されている。すなわち最初に武力衝突のあった安賀荘をはじめ、一揆方の拠点であった山東・山西郷、倉見荘、鳥羽荘はいずれも山門領であったし、木崎・和久里両氏も鎌倉末期において山門との関係が想定されている在庁官人である。さらに一揆蜂起のときには、近江から山門勢力と思われる援軍が加わっているから、一揆勢の背後に鎌倉期以来若狭に大きな影響を及ぼし続けていた山門の影があったことは十分考えられる。 

表23 若狭応安の国一揆における守護方・一揆方の構成

表23 若狭応安の国一揆における守護方・一揆方の構成


写真109 野木山(山中町)

写真109 野木山(山中町)

 一方の守護方には、関東御家人で鎌倉期に大飯郡本郷地頭であった本郷氏、若狭氏の子孫と思われる三方氏、鎌倉期に若狭氏からの没収地を一時与えられた伊賀氏のほか、遠敷郡松永保地頭多伊良氏の名がみえる。これらは鎌倉期に得宗権力から圧迫を受け地頭になっていない国御家人とは明らかに立場を異にする武士であり、彼らが国御家人の子孫を中核とする一揆勢の敵方にまわったのは自然な選択といえよう。また鎌倉末期以来税所代をほぼ世襲して歴代守護に仕えてきた海部氏も、当時は今富名領主山名氏の支配下にあったとはいえ、守護と敵対する理由はなく、守護方に属したとみられる。以上は初めから守護方帰属が予想される武士であるが、守護方にはこのほか、国御家人の系譜を引く土着武士も少なからず含まれていた。すなわち、建久七年(一一九六)の国御家人交名(ホ函四)にみえる佐分・青・和田三氏のほか、同交名の倉見氏・木崎氏と、それぞれ一族とみられる渡辺氏・多田氏などがそれである。ただし右の諸氏のうち青氏は、本拠大飯郡青郷が南北朝初頭から将軍家直轄領とされたふしがあり(「御散飯供御調進次第」『群書類従』所収)、一色氏入部以前に幕府から両使(裁決を現地で執行する使節)を命じられているから(資2 真珠庵文書二〇・二一・二三号)、この時期の青氏は本郷氏と同様、将軍直属御家人的立場にあった可能性がある。守護方に参じた武士にはほかに、若狭の国御家人を中心とする在地武士たちと網の目のように婚姻関係を結んで彼らの族的結合の結節点となり、精神的拠りどころとなってきた一・二宮の社務牟久氏もいたと考えられている。



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