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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    六 若狭応安国一揆の蜂起
      一揆の経過
図23 若狭応安の国一揆関係図

図23 若狭応安の国一揆関係図

 守護一色氏の闕所化策は在地国人との緊張を高めていったと思われるが、応安二年(一三六九)正月、ついに最初の武力衝突がおきた。すなわち、遠敷郡安賀荘で金輪院が守護方に抵抗したため、守護代小笠原長房が押し寄せて合戦となり、在所は焼き払われ、所職は没収されてしまった(「守護職次第」、以下同)。金輪院は延暦寺の子院で延暦寺領安賀荘の経営のため現地に下っていたと思われるが、守護方から具体的にどのような圧迫を受けたかはわからないものの、太良荘などでみられた闕所化の問題が絡んでいたとみてよかろう。翌三年十二月になると守護方は三方郡山東・山西両郷を闕所とし差し押さえようとしたが、このとき派遣された守護使壱岐太郎が夜討ちにあって戦死してしまった。そこで小笠原は年が明けた応安四年正月二日、西津の守護所を発って三方郡に押し寄せ、菅浜で合戦となった。このとき双方に数十人の負傷者が出たが、小笠原方が勝利を収め西津に向けて帰ろうとしたところ、鳥羽氏・宮河氏らがこれを待ち受け、正月六日夕方に三方郡倉見荘能登野でまた 合戦となった。小笠原軍はこれにも勝ったがしばらく同地に陣を取り、翌日早朝西津を出た一色詮範(範光の子)がこれに合流して能登野の国人を攻めたあと、そろって西津に帰った。その後宮河氏らは遠敷郡宮河に城を構えて篭もり、しばらく守護方と国人方のにらみあいが続いた。この間守護方は、太良荘に兵粮米一〇石、兵粮銭五貫文を相ついで懸けるなど(オ函五七、タ函二一)、着々と戦闘態勢を整えていった。四月に守護方が宮河城に夜討ちを敢行して武永入道なる者を討ち取り、付近に放火するなどの小競り合いがあったのち、五月になって国人らはいっせいに蜂起し、安賀荘・鳥羽・三宅などに討ち入った。これに対して守護方は、宮河谷の入口を押さえる野木山に陣を取って対峙した。そのころ太良荘で百姓が逃散しているように(タ函二一)、民衆の負担も限界に近かったと思われる。決戦は五月二十六日の 暁、一揆勢が遠敷郡玉置荘に乱入して火ぶたが切られた。守護軍は野木山を駈け降りて、玉置荘の北川河原で一揆勢と激突し、これを討ち破った。



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