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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    五 若狭の守護半済と国人
      守護支配の強化
 貞治元年(一三六二)十二月、守護石橋和義は丹波出陣のため国内の地頭・御家人のみならず、寺社領の荘官にも参陣を命じた(ゑ函三九)。これは地頭・御家人に限って軍事動員できるという守護の権限を明らかに逸脱している。この新たな軍事動員方針は、次の斯波氏にも受け継がれた。すなわち貞治四年三月、斯波軍の摂津出陣にさいして太良荘では領家方預所快俊が「壱騎」を務めたが、守護方は地頭方分の一騎も出すよう 催促してきた(タ函一五)。斯波氏の論理は、地頭方の呼称がある以上、地頭の有無にかかわらず地頭としての軍役勤仕義務があるということであろう。こうした斯波氏の強硬な姿勢からみて、おそらく太良荘以外の荘園でも、荘官層まで含めた徹底した軍事動員が行なわれたとみてよい。とすれば、これまでまだ守護権力の傘下に入っていなかった非御家人の国人も、その多くは荘官になっていたので、このとき摂津出陣を余儀なくされたものと思われる。
 斯波氏失脚のあと若狭守護となった一色範光は、斯波氏の旧被官および前年摂津に出陣した寺社本所領代官の所職を闕所とし、これらを給人に充行うこととした(ハ函六六)。貞治六年、田井保公文職が闕所とされて市河入道に給付されたのはその一例である(本節三参照)。太良荘の預所快俊は、実際に摂津に参陣したばかりか越前に下って杣山城に篭城中の斯波氏に内通しているとされ、その預所職は当然没収の対象となった(ゑ函二一五)。ところが東寺常住の僧である禅舜のもっていた地頭方代官職まで闕所とされ、預所職と合わせて渡辺直秀に給付されてしまった(ただし地頭方はすぐに東寺に返された)。この渡辺は国御家人倉見氏の系譜を引くとみられる土着武士で、一色氏の初期の奉行人直秀と同一人物の可能性が高く、在地武士がこの闕所化策の恩恵を受けた例といえよう(八函六六、ヱ函八二)。
 ところで、斯波氏との関係や摂津出陣を理由として闕所にするというのはあまりにも強引なやり方であって、 この原則が摂津に出陣したすべての国人・寺社領代官に適用されたとは考えられない。しかし太良荘の禅舜の例のように、守護側の闕所認定は恣意的な場合もありえたことを考えると、若狭の国人たちにとって一色氏の打ち出したこの闕所化策はやはり少なからず脅威になったと思われ、特に観応・文和の国一揆を経験している土着武士たちと一色氏との間には緊張関係が高まっていったとみられる。そして、そのことがやがて起こる応安の国一揆の一因にもなったと思われる。
写真108 太良荘地頭代禅舜申状案(ハ函六六)

写真108 太良荘地頭代禅舜申状案(ハ函六六)




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