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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    五 若狭の守護半済と国人
      半済の進展
写真107 太良荘地頭方年貢等算用状(ハ函三〇、部分)

写真107 太良荘地頭方年貢等算用状(ハ函三〇、部分)

 若狭における半済は、文和三年(一三五四)細川清氏によって初めて実施された。この年太良荘地頭方では、東寺が収納した年貢五六石余の半分二八石余が「しゆこ方半済分」として徴収された(ハ函三〇)。この半済分を給されたのはかつての守護大高重成の子重久であるが、翌四年八月には半済分を超えて年貢を取ったため、細川氏から半済分を守るように命じられている(は函一〇三)。その後まもなく太良荘では半済そのものが停止されたようであるが(ミ函四四)、石橋和義が守護になった康安元年(一三六一)の十二月下旬、武田某がおそらく半済給人として太良荘に入部し、来納(来年分の前納)として米・銭を責め取った(は函一〇五)。そこで東寺は翌二年二月これを幕府に訴え、同月二十二日石橋氏も半済停止を命じている(ゑ函三七、ナ函八)。ところが三月五日になると、武田に替わって「ヘカサキ重雄」が入部し(は函一〇五)、五月には半済分の年貢徴収に必要な文書の提出を 東寺側に求めてきた(ツ函二〇八)。その書状の袖(右端)に加斗別納・安賀里・鳥羽・賀茂荘の名が記されているのは、これらの荘園でも半済が実施されたことを示唆している。なおこの年に石橋氏は半済に加えて「四分一済」、つまり合計「四分三済」を実施している(ツ函五三、『師守記』貞治二年閏正月六日条)。太良荘においては「ヘカサキ」の半済支配に対処するなかで、東寺は「ヘカサキ」に土地を分割することとした(タ函一三)。こうなると、単なる年貢の折半に過ぎなかったそれまでの半済と違い、太良荘の土地の半分に東寺の支配権が全く及ばなくなってしまう。守護側からすれば、これによって若狭国内の荘園・公領の半分を自分の判断で配下の武士に給付することが可能となるのである。
 ただし、半済給人として名前の知られる武士のなかに鎌倉期以来の土着武士の名前は見当たらない。これは、若狭の土着武士の守護被官化がまだそれほど進んでいなかったということでもあるが、室町期の一色氏のもとでも、若狭に本拠を置く国人が半済給人になった例は確認されていない。したがって若狭の場合、半済を国内武士の被官化という面からその役割を高く評価することには慎重でなければならない。しかし太良荘のような本来対象外であるべき寺社一円領(地頭が置かれていない寺社領)においてさえ強行され、しかも恒常化していった若狭の半済が、守護権力を支える重要な経済基盤の一つであったことは否定できない。



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