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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    五 若狭の守護半済と国人
      若狭守護と国人
 すでにふれたように、南北朝期の若狭守護はめまぐるしく替わった。そのために、守護が国人(国内土着武士)を主従関係のもとに組み込むことは容易ではなかった。国人の側でも、これほど頻繁に交替する守護と強い関係を結ぶことには慎重にならざるをえなかっただろうし、なによりも鎌倉期以来守護得宗の圧迫を受けてきた若狭の土着武士たちは、守護権力に対する不信の念が根強かったと思われる。前項でみた観応・文和の国一揆は、そうした彼らの思いと団結力がもたらしたものであった。しかし、守護ももちろん国人の掌握に努めている。例えば細川清氏は、守護領の中核をなす税所今富名内の八か所を給人ら(氏名未詳)に与えている(「紀氏系図」裏文書)。東寺がのちに細川のことを「国中寺社本所領悉くもって人給に宛行」ったと非難しているのは(し函三〇)、多少の誇張があるとしても彼が国人の被官化に努めたことをうかがわせる。石橋和義のもとの守護代国富肥後守および同じころの守護使節の一人国富長俊は、遠敷郡国富荘を本拠とする武士かもしれない。また、同じ 石橋氏の代に明通寺領遠敷郡寺野村を給されている大内秀和が(資9 明通寺文書三九号)、室町・戦国期に石橋家の筆頭被官となる大内氏(小浜出身という)の祖とすれば、石橋氏もまた在地武士への働きかけに努めた守護といえよう。このように守護による国人掌握の努力の跡は確かに認められるが、しかし国人に新たに給付しうる所領が主として守護領と闕所地(没収地)に限られていることは、守護にとってやはり決定的な制約であった。この制約を解消したのが半済制度である。



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