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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    四 観応の擾乱と国一揆
      文和二年の一揆
 義詮が南朝方から京都を奪還し、さらに進んで南朝軍の本陣八幡(京都府八幡市)を攻めていた観応三年四・五月ごろ、伯耆の山名時氏は子息師義を派遣して幕府軍に参加させており、このころまでに幕府方に帰降したことが知られる(『太平記』巻三二)。ところが、この八幡合戦の戦功をもって以前拝領した若狭国税所今富名の還付を佐々木道誉に嘆願したにもかかわらず道誉がこれを無視したため、怒って伯耆に帰った師義は父時氏とともに南朝方に復帰したという(同前)。そしてこの年十一月南朝に降った足利直冬のもとに、山名以下、斯波・桃井・石塔らかつての直義党が再度結集し、翌文和二年六月、南朝軍・直義党が大挙して京都を襲い、義詮を美濃に追った。そして、翌七月には山名時氏が南朝・直冬から若狭守護に任じられるのである(「守護職次第」)。時氏は代官として幡津次郎左衛門尉・三宅中村六郎左衛門尉の二人を任じた。幡津は以前山名が守護のとき今富名奉行の一人に起用されているから山名氏直臣と思われるが、中村は遠敷郡三宅荘に本拠を置く武士かもしれない。
写真106 湯岡遠望

写真106 湯岡遠望

 さて、若狭国人はまたも難しい選択に迫られることになったが、今度は彼らは幕府方として、幡津・中村の立て篭もる稲岡城に押し寄せた。この稲岡城の所在地について、近世の地誌「若狭国志」は湯岡(小浜市)に比定している。合戦はたびたびに及んだが、七月二十七日幡津・中村らは城を出て没落した(「税所次第」)。義詮が京都を再び奪還したのはその前日のことであった。このあと翌文和三年九月、細川清氏が斯波家兼に替わって若狭守護に任じられ、自ら下向して神宮寺に逗留している(「守護職次第」)。これは細川の若狭支配に対する並々ならぬ意欲の表われでもあるが、同時に当時の若狭の政情不安を物語るものともいえよう。事実、九月神宮寺逗留中の細川に巻数(祈のため読んだ経典などの目録)を送っている明通寺に、十一月八日には正平九年という南朝年号を使った禁制を下す武士(氏名未詳)がいるほどであった(資9 明通寺文書三四・三五号)。また、文和二年四・五月ごろ幕府方にあった河崎信成がその四年後の延文二年(正平十二年、一三五七)には南朝方になっているなど(資9 神宮寺文書八・九・一一号)、しばらくは若狭にも南朝勢力が残存していたことが知られる。しかし、文和四年正月から六月にかけて直冬党が京都を占拠して幕府軍と戦ったとき、越前守護斯波高経が再度尊氏に背いたのに対し、若狭ではなんの混乱も伝えられておらず、守護細川氏の支配が政治的安定をもたらしたことをうかがわせている。しかし康安元年(一三六一)九月、細川清氏が失脚して若狭に下ったとき、小浜にいた守護代頓宮四郎左衛門尉が清氏に反旗を翻したため、清氏は若狭から逃れて南朝方に降っている(『太平記』巻三六)。頓宮は細川の直臣であるが、彼の寝返りは若狭国人の動向をふまえての選択だったと思われるから、当時の国人たちには幕府を追われた清氏を支えようとする意志がなかったとみられる。そのことは、若狭の国人らに幕府権力のもつ重みがようやく認識されてきたことを意味しており、観応・文和の一揆以後、若狭における南北朝の争乱という形での戦闘がみられなくなるのもそのためかもしれない。ただし、国人らの守護権力に対する自立意識そのものは健在であり、観応・文和の一揆でみせた彼らの力をもう一度試すときがやってくる。



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