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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    四 観応の擾乱と国一揆
      山名時氏の若狭没落と観応一揆
 観応二年八月一日、直義は尊氏の自分を討つ計略を察知して急ぎ京都を離れ、越前敦賀に走った(『園太暦』同日条)。これに従う武士のなかに山名時氏もいた(「観応二年日次記」同年七月三十日条)。八月三日には本郷貞泰が、山名のほか上野頼兼・赤松則村ら直義党の若狭没落を尊氏に報告している(本郷文書二八号)。直義とともに出京した近習寺岡入道も三方郡前河南荘で違乱を働いているから(資2 廬山寺文書六号)、若狭にはかなりの直義党が入国していたものと思われる。
写真104 三方郡南前川

写真104 三方郡南前川

 山名時氏の若狭守護職は当然没収されたが、その後任には同年九月明通寺に禁制を下している斯波家兼が任じられたとみられるものの(資9 明通寺文書三二号)、このころ太良荘に対し兵粮を課した仁木太郎入道(義覚)も守護とされており(ツ函三〇)、その前後関係は定かではない。十月になると幕府は大高重成を四たび守護に起用するが、重成が代官大崎八郎左衛門入道を下すと若狭の国人らは一揆を結んでこれに抵抗した。一揆は三宅・脇袋・宮河といった遠敷郡の武士が中心で、守護(幕府)方には本郷氏らが属した。十月二十五日の合戦においては守護方の本郷泰光・松田惟貞らが討死し(本郷文書三三号)、十一月にはついに守護代大崎が国外に追放されてしまった(「守護職次第」)。
 この間尊氏は近江に進み、越前の直義との和睦を試みていたが不調に終わり、十月直義が鎌倉に移ると尊氏は南朝に降った。いわゆる正平一統である。その後、尊氏は直義軍と戦いながら東下し、翌文和元年(正平七年、一三五二)二月、鎌倉で直義を毒殺してしまう。しかしその後も直義党は九州の直冬を盟主として尊氏に対抗したから、戦乱は依然として収まらなかった。
写真105 小槻国治書状(フ函二三、部分)

写真105 小槻国治書状(フ函二三、部分)

 若狭では、当初入国した山名時氏はほどなく本国伯耆に下ったものと思われるが、正平一統後も直義方の一揆勢が優位を保っていた。太良荘では観応二年(正平六年)十二月、一揆方の三宅入道が討ち入って年貢を奪うなどの違乱を働いたため、百姓らは翌文和元年二月、「当国の一揆は静まりそうもないので、一揆衆の力に頼る以外にない」として、一揆衆の一人脇袋(瓜生・小槻)国治を地頭方代官にしてほしいと東寺に訴えている(ハ函一九・三六三)。この百姓の動きに支えられて、脇袋は代官職補任を受けるため翌閏二月京都に向かった。ところが国境まできたところで、正平一統が破れてすでに近江国の保坂から朽木谷を抜けたところにある「くすれ坂」では合戦が始まっていると聞いた脇袋は、上洛をあきらめ帰国した(フ函二三)。
 この少し前の閏二月十八日に足利義詮は南朝方の和睦破棄の動きを受けて、本郷貞泰に対して大高のあと守護に任じた斯波家兼のもとで若狭の南朝方を討つよう命じているが(本郷文書三六号)、その二日後に京都は南朝軍の手に落ち、義詮は近江に逃れた。本郷貞泰は一族伊泰を近江の義詮の陣に送る一方、子息信泰を斯波直持(守護家兼の子)に属させて若狭南朝勢との合戦に参加させている(同四一号)。かつて直義党だった一揆勢が南朝方として挙兵したのであろう。中央では三月十五日に義詮が京都を奪還するが、若狭での戦闘はその後も二か月ほど続いたとみられる。五月になると、本郷家泰が尊氏から上洛を命じられたり、貞泰が閏二月以来の一族の戦功を書き上げた軍忠状を守護斯波家兼に提出しているので(同四〇・四一号)、このころには幕府軍の勝利のうちに、ひとまず若狭の戦乱も終息したものと思われる。



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