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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    四 観応の擾乱と国一揆
      観応の擾乱勃発と若狭
 南北朝の動乱は室町幕府勢力と南朝方との抗争を軸に展開したが、その間、幕府内部の紛争も繰り返された。なかでも最も深刻な内紛となった観応の擾乱は、まず高師直と足利直義の対立という形で始まった。師直は将軍の執事として尊氏のもつ軍事指揮権・恩賞給与権に関する実権を握っていたのに対して、直義は兄尊氏から政務を委任され裁判を担当する引付方を中心に幕政を統括した。このように、武士に対する私的(個別的)支配権と裁判などの公的(一般的)支配権という将軍権力を構成する二つの異質な権限を、尊氏と直義が分有しながら担ういわゆる二頭体制は、必然的に矛盾を増大していき、遠からず破綻をきたすことになる。
 貞和五年(一三四九)閏六月、直義は尊氏に迫って執事師直を罷免させるが、同年八月に師直は直義を襲い、尊氏邸に逃げ込んだところを囲んで、政務を直義から義詮(尊氏の嫡子)へ委譲させるとともに師直の執事職復帰を認めさせた。この時点で前越前守護斯波高経は直義側に加わったが、若狭守護山名時氏は師直陣営に参じている(『太平記』巻二七)。なお、直義党の中心人物である上杉重能・畠山直宗は足羽郡江守荘に流され、師直の密命をうけた越前守護代八木光勝のために殺された(同、『園太暦』貞和五年十二月六日条)。
 反撃の機会をうかがっていた直義に、まもなく好機がおとずれた。翌観応元年(一三五〇)十月、尊氏が足利直冬討伐のため自ら出陣することになったのである。直冬は前年長門探題に任じられ、任地に赴く途中で師直の送った討手に攻められて九州に逃げたが、やがて反尊氏の兵を集め、九州・西中国に一大勢力を形成したためである。直義は尊氏の出陣直前に京都を脱出し、同年末には南朝方に降った。翌二年正月十五日、越中の桃井直常ら直義党が京都に乱入すると、それまで態度を決めかねていた諸将はこぞって直義方についた。山名時氏もその一人である。備前まで進んでいた尊氏は急いで兵を返し、義詮とともに京都奪還を試みたがかえって敗れ、丹波を経て播磨書写山(兵庫県姫路市)に走った。
 その尊氏のもとに若狭の本郷貞泰から「若狭国凶徒蜂起」の知らせが届いた(資2 本郷文書二三号)。尊氏は本郷に味方として忠節を尽くすように命じ、ついで二月一日付で本郷家泰(貞泰の嫡子)に坂井郡春近郷地頭職半分(同二四号)、佐々木道誉に若狭国税所今富名などを(資2 佐々木文書二号)、それぞれ勲功の賞として給付している。このことは、若狭で直義に与する国人の蜂起があったことをうかがわせている。なお本郷や道誉への恩賞は、当時の尊氏の置かれた軍事的立場や守護山名が直義党となったことなどからすれば、すぐには実現しない恩賞であったとみてよかろう。
 尊氏は二月十七日、本郷貞泰に摂津打出浜(兵庫県芦屋市)への参陣を命じているが(本郷文書二五号)、同日の合戦で大敗して直義との講和を余儀なくされ、師直ら高一族も殺されてしまった。こうして幕政はすっかり直義の掌握するところとなり、山名時氏の若狭支配は確保されたから、若狭では比較的平穏な日々が続いたものと思われる。しかし、その破局は早くも半年足らずで訪れることになる。
 



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