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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    三 若狭の守護支配機構と国衙
      山名氏の今富名領有
 貞治二年九月、長年反幕府陣営にあった山名時氏が幕府方に帰降し、翌三年三月子息を上洛させたさい、今富名領主すなわち税所職が山名に給され、ここに国衙機構の最も基幹をなす税所は再び守護の支配下から外れることになった(「税所次第」)。永和三年(一三七七)、守護一色氏は太良荘に一・二宮流鏑馬役を賦課するさい、「国中神事奉行」でもある税所代海部信泰に先例を照会し、「古日記」にもみえないとの回答を得ながら、これを無視して催促した。しかし太良荘公文弁祐が多額の礼銭で海部を動かして、結局免除を獲得した(ツ函六九、し函二二〇、資2 大谷雅彦氏所蔵文書二号など)。一色氏はこの流鏑馬神事を、後述する応安の国一揆のあと国内諸階層の精神的結集を図る神事として位置づけていたものと思われるが、神事役徴収も含めて神事遂行の衝にあたった税所が山名氏の支配下にあったために、一色氏が十分に主導権を発揮できなかったものと考えられる。
 ところで、税所には今富名など本来の税所領のほか、鎌倉末期に税所が他の在庁官人から奪った別名も合わせるとおよそ二四〇町歩の所領があり、南北朝期にはこれらの多くを税所が支配した。おそらく南北朝期の守護領の大部分を占めたと思われるこの税所領が山名氏の領有に帰したことは、守護にとって経済的にも大きな打撃になったといえよう。とりわけ今富名には小浜が含まれており、今富名領主には小浜に入港する船から「入船馬足料」と称する一種の津料を徴収する権利があった(資9 塚本弘家文書二号、資2 天龍寺文書一五号)。今富名の政所が小浜問丸のところに置かれたのはそうした事情からであり、同名の経済的価値は莫大であったといえる。また、小浜の問丸や入船馬足料の徴集にあたった刀に対する支配権も今富名領主の有するところであり、こうした支配権を失ったことは、交通・流通路の掌握のうえでも大きな損失であった。このような、若狭守護の分国支配にとって、いわば片肺飛行の状態が解消されるのは、明徳の乱で山名氏が勢力を失い、この乱の功で一色詮範が今富名を拝領する明徳三年以降のことである。



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