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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    三 若狭の守護支配機構と国衙
      若狭の守護と国衙
 ここで守護と国衙の関係についてみておこう。鎌倉期に守護得宗が掌握していた税所は、建武新政権の成立とともに国司の支配下に入ったが、建武政府が倒れ、足利方の斯波時家(家兼)が若狭守護に任じられると、彼が税所職をも合わせ領することとなり、税所は再び守護の支配下に復した。なお税所代は、建武新政権成立後一年ほど多田知直が在職した以外は、鎌倉末期から海部氏が忠氏→秀氏と継承し、以後観応元年(一三五〇)まで在職し続けたものと考えられる(表21)。海部氏はその後も文和三年(一三五四)以降応永十年まで忠泰→信泰→泰忠と税所代職を世襲し、鎌倉期の忠氏から数えると実に一〇〇年余のほとんどの期間、税所代職を独占し続けたことになる。このことは、海部氏が国衙のなかで極めて優越的地位にあったことを物語るものである。また特に頻繁な交替を繰り返した南北朝初期の守護にとって、この海部氏を掌握すること、換言すれば彼の地位を温存することによってのみ、税所を自己の権力のうちに取り込むことが可能であったと考えられる。したがって、この時期の守護にとって、税所をはじめとする国衙機構を意のままに機能させることはまだ容易ではなかったといえよう。
 しかしそうした関係はいつまでも続いたわけではなく、少なくとも税所に対しては守護の支配は確実に強まっていった。観応元年に山名時氏が税所代海部秀氏を更迭し、同じ在庁官人の池田氏に替えたのは(「税所次第」)、税所のより直接的支配をめざしたものと思われる。このもくろみは翌二年の観応の擾乱における山名の失脚で頓挫するが、まもなく税所はすっかり守護権力のもとに掌握されたものとみられる。例えば細川氏の代の延文四年(一三五九)に役夫工米(伊勢神宮造営料)が懸けられたとき、守護方は太良荘に自ら配符を下し、守護使派遣を示唆して納入を迫っている(し函二七、ツ函二五八)。南北朝期の役夫工米は造営使の派遣する大使が徴集することになっていて、守護使はあくまで脇役でなければならなかったにもかかわらず、ここでは配符まで守護方が発行している。この配符には大田文にもとづく田数が「委しく注」してあったというから、当然それは税所に作成させたに違いない。
 貞治元年には今富名代官として税所を統括する敷地左衛門入道ら守護勢力が、太良荘を国衙領とみなして国役を課している(ア函三一三、は函一三二)。これは、税所の機能を掌握した守護方が国衙の衣をまとって支配を強化しようとする動きととらえることができる。以上二つの事例は、いずれも守護方が税所を完全に手中に収めていたことを物語っている。ただそれは税所についてであって、例えば国衙工房を司る細工所を支配する木崎氏が応安の国一揆で一揆方に参じているように、国衙全体が守護権力のなかに包摂されていたわけではなかった。



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