貞治五年(一三六六)十月ごろ若狭守護となった一色範光は、「両使」として伊藤入道・遠山入道を下向させ、守護代には小笠原長房、小守護代には武田重信を任じた(「守護職次第」)。守護代小笠原長房の出自については、将軍近習であった可能性があるものの確証はない。彼は在京する一色氏に代わって若狭に在国し、守護権力の代行者として政治・軍事・経済のあらゆる面にわたって大きな権限をもっていた。例えば、貞治六年小笠原は三方郡田井保公文職を闕所(没収地)と認定し市河入道に与えたため、同保の領主中原師茂が守護一色範光と交渉して、闕所の撤回に成功している(『師守記』同年五月六日・七月二十六日条)。この小笠原の行為は、前年失脚した斯波氏との関係をもつものの所領を闕所にするという一色氏の方針にもとづく措置であろうが、個々の所領の具体的認定作業は、現地にいる小笠原の判断で進められたことをうかがわせる。このような例から、半済の給付についても小笠原が実質的権限をもっていたことは十分予想される(本節五参照)。諸役徴収においても、小笠原は枢要な立場にあった。例えば、若狭で最も重要な神事である一・二宮流鏑馬と小浜八幡宮放生会の神事役の配符(納入命令書)や、幕府に納める地頭・御家人役の配符も小笠原から出されている(ツ函七六・六四、ウ函六二、オ函五四・六四・二一六)。このほか個々の所領の段銭免除についても、小笠原がある程度の裁量権をもっていた可能性さえある(資2 若杉家文書三号)。このように守護代小笠原長房の権限は相当強力なものであったと思われるが、南北朝末期になると次第に在京することが多くなり、直接若狭の人びとと向き合って守護支配を担うのは、小守護代武田氏となる。
小守護代武田重信は、守護石橋和義のもとで太良荘半済給人となった武田某(は函一〇五)もしくはその一族と考えられ、おそらく南北朝期になって入国した武士であろう。小守護代の存在意義は守護代が在国しない場合にこそ高まるものであろうから、小笠原長房が在国していた南北朝期では武田の活動はさほど際立つものではなかった。すなわち、彼は応安六年(一三七三)に経続という者との連署で築地料足銭の請取状を出しており(オ函六三)、その地位は奉行とよぶのがふさわしく、事実彼は「にしつ(西津=守護所)奉行」とよばれた(資2 大谷雅彦氏所蔵文書二号)。そののち彼は諸役請取状を単独で出すようになり、永徳元年(一三八一)から至徳二年(一三八五)にかけて太良荘に出された四六通の守護夫催促状はすべて彼の発給になるものであって(ハ函八四・九一など)、諸役徴収における重信の権限が永徳以後確立していったことがうかがえる。また、永徳元年と明徳元年(一三九〇)に重信の上洛が確認されるように(ハ函八七・九五)、彼は若狭と京都を結ぶパイプ役としての役割も果たしていたと考えられる。さらに嘉慶二年(一三八八)には、小笠原長房の命を下達するという小守護代にふさわしい活動が確認され(秦文書一〇二号)、小笠原長房の在京が恒常化するにつれて、武田氏の役割は一段と大きくなっていったことがうかがえる。 |