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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    三 若狭の守護支配機構と国衙
      一色氏以前の支配機構
 若狭における守護支配の進展のあとをたどるために、まず支配機構の整備状況と、守護・国衙の関係からみてみよう。
 南北朝期の若狭では守護の交替が実に激しく、特に一色氏以前の三〇年間は一代の平均在職期間が二年ほどにしかならない(表21)。そのためこの間、守護権力が在地に浸透していく余裕はあまりなく、若狭において守護支配が本格的に展開するのは一色氏による応安の国一揆打倒以降のことである(三章二節参照)。ただ、それまでの守護もそれぞれ支配機構の整備や国内武士の掌握に努めたことはいうまでもない。

表21 南北朝期若狭の守護・守護代・税所代

表21 南北朝期若狭の守護・守護代・税所代
 表21の守護代には素性のわかる者が少ないものの、多くは若狭以外で守護と主従関係を結んだ直臣と思われるが、石橋和義のときの国富肥後守は遠敷郡国富荘の武士かもしれない。守護代の代官である小守護代は、「守護職次第」による限り、斯波義種のときの安富某までみえない。このことは、この間小守護代がいなかったことを意味するものではないが、まだ小守護代の役割がさほど大きなものではなかったことをうかがわせる。このほか、細川氏の「両御奉行」湯浅季秀・元吉秀保が裁決の下達や半済給人の違乱停止にあたっていたり(資8 大音正和家文書五九号、は函一〇三)、石橋和義のときには、国富長俊と吉岡禅棟が守護使節として所領の打渡しにあたっているなど(資2 廬山寺文書一一号・天龍寺文書六号、資8 大音正和家文書六九号、ナ函八)、一色氏以前の守護も、守護代のほかに小守護代・奉行などの支配機構をある程度整備していたことがうかがえる。



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