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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第二節 守護支配の進展
    二 斯波氏の越前支配
      守護支配の進展
 「建武式目」に「諸国守護人」は「上古の吏務」(国司)で「殊に政務器用を選ばるべし」とあるように、室町幕府における守護の本務は行政官にあると位置づけられている。国内地頭・御家人に対する軍事指揮権をもつことはいうまでもないが、それでも守護は本来あくまで幕府権力の国別の執行人に過ぎないのであって、任国を自らの意志で独自に支配する、自立的な領国支配権力であってはならなかった。しかし、守護がそうした自立的な権力に近づこうとするさいの手段は南北朝期のうちに用意された。すなわち守護本来の権限たる大犯三か条に、鎌倉末期から(1)使節遵行権(使節を派遣して幕府の裁決を執行する権限)が事実上加わり、南北朝期には(2)刈田狼藉の取り締まり権、(3)闕所(没収地)預置権、(4)半済給与権などが守護に与えられた。(1)(2)は守護が荘園に介入する途を開くものであり、(3)(4)は配下の武士に恩給を与えて主従関係を形成し、また強化することを用意にした。このうち(4)の半済は、当初兵粮米に充てるために荘園年貢の半分を臨時に徴収する制度であったのが次第に恒常化し、のちには土地を折半する方式まで現われた(三章二節参照)。こうなると、国内の荘園・国衙領の半分は、守護の判断で被官に給付することができる事実上の守護領と化したとさえいえる。
 南北朝期の越前で明確に半済の実施が知られるのは、嘉慶元年(一三八七)当時の醍醐寺領牛原荘丁郷(資2 醍醐寺文書七三号)と翌二年の春日社領泉荘・小山荘領家職(資2 京大 一乗院文書一三号)という、大野郡の二例のみである。しかし例えば貞治期の斯波氏は、円覚寺領今立郡山本荘泉・船津両郷の「半分」を渡したというから(資2 円覚寺文書一三号)、大野郡以外でも広く守護の半済が実施されたとみてよい。
 半済のような制度化されたものでなく、守護が暴力で荘園を侵略することもしばしばみられた。斯波高経が「家中ノ料所」にしたと『太平記』巻三九のいう河口荘の真の侵略者は朝倉氏であったとしても、斯波氏が同荘から兵粮米を奪っていたことは事実であるし(「鵜殿関問答引付」)、建武四年(一三三七)には、斯波高経が足羽郡木田荘に先例を無視した課役を催促したとして興福寺から訴えられている(資2 尊経閣文庫所蔵文書一二号)。また、吉田郡河北荘では応安四年(一三七一)、代官の手引きがあったとはいえ、守護畠山氏が使者を入れて有徳銭(一種の富裕税)を強引に徴収している(資2 醍醐寺文書六〇号)。
 以上のように合法・非合法を問わず守護の荘園侵略がみられたが、守護は決して荘園制の破壊をめざしたわけではなく、半済のようにむしろ荘園制の機構を利用しながら分国支配を深化させていこうとしたのである。その様相は、史料の豊富な若狭の方でより具体的にみることができる。



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