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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
     三 女性の御家人・名主
      女子相伝
 ところで、この時代の特に御家人社会においては、女性も両親から財産を分与されることにより、室町期以降の女性とは比較にならない自立的な地位をもっていたことが知られている。例えば先にもふれたように、太良荘の末武名をもつ中原氏女は建治三年(一二七七)に一族の惣領鳥羽国茂とこの名田をめぐって争い、一歩も引かなかったのである。同じ太良荘の預所職は定宴が「女子相継ぐべきの旨」を条件として子孫に相伝することを許されていた(ヌ函二)。弘安八年(一二八五)まで太良荘現地において支配にあたっていたのは定宴の子の大蔵入道盛光であったが、預所には定宴娘の藤原氏女(阿古・東山女房)が任じられており、盛光はその代官であった(オ函七)。太良荘預所職がこのような条件をつけられているのは、婚姻を通じてこの所職が東寺の統制のできない有力者のもとに移っていくことを警戒したものと思われる。逆にそのような条件のない場合には、女性に与えられた所職・所領は婚姻を通じて他氏の男性の支配するところとなる。建治二年に松永荘の地頭一族の多伊良れんかう入道は「ねういこせ」という女性に屋敷と井尻の田三段を譲与した(資9 明通寺文書六号)。この田はねうい御前の娘に譲られ、佐々木氏に嫁いだこの娘はさらに子の佐々木信顕に譲っていたが、元応二年(一三二〇)に信顕はこの田を明通寺に二親菩提のために寄進している(同一〇号)。



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