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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     五 女性の活動
      女性名主と請人
 前にも述べたように、延文四年より太良荘真村名を法阿に奪われた前名主権介真良の姉の観音女と権介真良の娘の若鶴女はそれぞれ真村名の返付を求めて東寺に訴えている。彼女たちの主張は、観音女が「所詮、訴陳の肝要は重代相伝の一事なり」と述べているように(ハ函四五)、名主職はそれを相伝してきた名主家のもののみが継承権をもつということに尽きる。ここに名主職は名主家の、相対的な意味ではあるが私的な家産だとする観念がみられ、この限りで女性であっても名主職を主張しうるのである。
 しかし同時に、延文五年四月に法阿の非法を訴え、真村名主として任命されたいと願う若鶴女が「女身として御年貢・御公事等勤仕の事、もし御不審に及はば有力の請人を立て申すべきものなり」と述べていることに注目すべきであろう。すなわち、女性であっても権利として名主職をもちうるが、実際に諸役を負担することに東寺が不安をもっているならば有力な請人を立てるというのである。これは名主職に含まれていた権利(いわば私的な得分権)と負担(いわば公的な役負担義務)の分離を示すが、女性においては役負担能力に欠けるとしてその社会的活動が 制限されることをも意味する。実際女性の名主は存在しながらも、荘民が惣百姓として署名する場合に女性の署名がほとんどみられないのは、女性が対外的・公的には惣百姓の構成員としては位置づけられていなかったことを示している。



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