女性であっても名主職をもちうるが、その任務は男性が代理として遂行するというあり方は南北朝期以後次第に定着していった。鎌倉期にはさかんにみられた女性預所の活動は影をひそめ、太良荘では預所賀茂氏女の代わりに子息の快俊が、また預所御々女に代わって保護者の松田知基が支配にあたっている。 ここで室町期の女性名主として太良荘真村名主御子(鈴女)の場合を挙げてみよう。御子は真村名を先祖相伝の名としてもっていたが、彼女の母と通じた荘民左衛門大夫が嘉吉三年(一四四三)に罪科を犯し逃亡したため、彼女の名も没収された(タ函一一八、し函二三五)。しかし翌文安元年(一四四四)五月に左衛門大夫が罪を許されたので、彼女も真村名の返付を求めて東寺に訴えた(タ函一一九、し函二三五)。この訴えはなかなか聞き届けられなかったが、ついに康正二年(一四五六)二月に彼女は宗音を代官として名主職に補任されている。その補任状は鈴女(御子)を充所として出されており(タ函一四九)、同年の「百姓指出」においても御子が名主とされている(フ函一二六)。しかし名主職補任に対して請文を提出しているのは「鈴女代宗音」であり(ツ函一三四)、その後の惣百姓等の 起請文や注進状に署名しているのも宗音であった(な函二六七、『教王護国寺文書』一六三九号、ハ函四〇二・四〇三)。 |