目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     五 女性の活動
      巫女の名主
写真117 太良荘御子申状案(し函二三五)

写真117 太良荘御子申状案(し函二三五)

 女性であっても名主職をもちうるが、その任務は男性が代理として遂行するというあり方は南北朝期以後次第に定着していった。鎌倉期にはさかんにみられた女性預所の活動は影をひそめ、太良荘では預所賀茂氏女の代わりに子息の快俊が、また預所御々女に代わって保護者の松田知基が支配にあたっている。
 ここで室町期の女性名主として太良荘真村名主御子(鈴女)の場合を挙げてみよう。御子は真村名を先祖相伝の名としてもっていたが、彼女の母と通じた荘民左衛門大夫が嘉吉三年(一四四三)に罪科を犯し逃亡したため、彼女の名も没収された(タ函一一八、し函二三五)。しかし翌文安元年(一四四四)五月に左衛門大夫が罪を許されたので、彼女も真村名の返付を求めて東寺に訴えた(タ函一一九、し函二三五)。この訴えはなかなか聞き届けられなかったが、ついに康正二年(一四五六)二月に彼女は宗音を代官として名主職に補任されている。その補任状は鈴女(御子)を充所として出されており(タ函一四九)、同年の「百姓指出」においても御子が名主とされている(フ函一二六)。しかし名主職補任に対して請文を提出しているのは「鈴女代宗音」であり(ツ函一三四)、その後の惣百姓等の 起請文や注進状に署名しているのも宗音であった(な函二六七、『教王護国寺文書』一六三九号、ハ函四〇二・四〇三)。
写真118 中世の巫女(七十一番職人歌合)

写真118 中世の巫女(七十一番職人歌合)

 この例は女性名主と男性代官の組み合わせの典型的な場合であるが、御子はその名前からしても、また自ら荘内の三社の祭礼の役を勤めていることを名の返付要求の理由に挙げていることからしても(し函二三五)、神社の巫女であったことがわかる。御子は鎌倉期の明通寺領においては「少分」の田畠を「一期分」(存命中だけの扶持分)として与えられているように、弱い立場に置かれていた(資9 明通寺文書一七・二〇号)。しかし鎌倉期においては女性も神主職に任じられていたが、南北朝期になるとそうした例がみられなくなるのに対し(資8 大音正和家文書一六・二五・五五号)、御子はその権限や地位を御子職というような職として強化することはなかったものの、その性格上女性の役として存続した。そして自らが御子として村落祭祀の役負担をしていることを名返付要求の理由の一つとして挙げていることは、村落における公的な役負担者たることを実質的に認められていたと考えられよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ