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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第三節 動乱期の社会変動
     五 女性の活動
      後家の地位
 全体としてみるならば、「嫡女」として家産を相続しえた女性は男性に比べるとはるかに少なかった。多くの女性は他家に嫁ぐことにより妻となり、子を産んで母となり、一家の主婦となった。そして不幸にも夫に先立たれると後家となった。鎌倉期において御家人や荘官層の後家が夫の権限を継承して活動したことについてはすでに述べたが、庶民層においても家の形成とともに家を守る後家が現われる。東寺への未納分年貢のないことなどを誓約した延文四年の太良荘民三四人の起請文署名者のうちにみえる後家はそうした 女性であり(オ函三二)、子供が成長するまで家を代表するものと位置づけられていた。
 家の存続が優先されるようになると、後家が亡夫より継承しうる遺産も制限されるようになる。鎌倉末期に遠敷郡常神浦刀の国清は自分の遺産のうち「跡所務」、すなわち刀職や土地などは子の忠国に譲与し、「家内財宝」、すなわち船・銭貨・米・家屋は後家に譲っている(資8 大音正和家文書三四・三五号)。このとき後家に譲与された「家内財宝」は莫大なものであり、それは後家が主婦として「家内」を支配していたことにもとづくものと思われるが、男子の忠国が相続した「跡所務」が公的な役職であるのに対し、「家内」という私的な部分を相続しているのである。同じころの正安元年(一二九九)、坂井郡坪江郷において死に臨んだ蓮仏は石王名内新田四段を蓮仏の「十三年仏事」の費用として妻に譲与した。蓮仏年忌の明けた正和五年(一三一六)に後家は、この田を取り返そうとした孫の朝賢と争っているが、敗訴している(「大乗院文書」)。後家にとってこの土地は生計の資でもあったと思われるが、後家分は家産維持のため夫によって制限されていたのである。
 後家は室町期以降も家を守るものとして現われる。太良荘において享徳元年(一四五二)閏八月に徳政一揆に加担したとして守護より処刑された助国名主泉大夫の跡は、男子が幼かったので後家が管理し、河成分年貢免除の請文も「泉大夫後家」が提出している(ハ函三九〇・二七一)。また後家が亡夫の跡を維持することに関しては、天文十六年(一五四七)の丹生郡水谷村の水谷後家と同村下右衛門尉との相論が参考となろう(資5 野村志津雄家文書四号)。それによると、下右衛門尉は水谷後家分の地を預けられていたが、その地の得分を「家まほり」の入用にあてたと主張したのに対し、水谷後家は下右衛門尉を「雇申」したことはないと反論している。このときは後家の主張が認められているが、後家として家を守るためには男性を代理として公役を勤めることが行なわれていたことを示している。年貢の 地下請、さらには村請が強化されると、こうした寡婦は望まなくとも家存続のために新しい夫を迎えざるをえなくなる。一定の家産があればそれも可能であろうが、そうした家産をもたない寡婦は苦しい状態に置かれたであろう。越前の慶長三年(一五九八)の太閤検地帳に現われる、わずかばかりの田畠や居屋敷しかもたぬ後家のうちにはそうした女性が少なくなかったと思われる。



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