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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第四節 越前・若狭の荘園の諸相
    一 太良荘
      荘の概観
写真120 遠敷郡太良荘

写真120 遠敷郡太良荘

 太良荘は、豊富な史料によって荘内の細部まで知ることのできる、全国的に著名な荘園である。
 都の貴族であった平師季が遠敷郡長田の地で得た所領は、仁平元年(一一五一)には孫の丹生太郎忠政の名にちなむ太良保内の地と称されるようになっていた(ぬ函一)。この忠政の子の丹生出羽房雲厳は先祖から受け継いだ所領を末武名としてもつほか、治承二年(一一七八)には保を支配する保司から太良保の公文に任じられていた(は函一)。他方で鎌倉期初めには最有力在庁官人の稲庭時定が保の地頭に相当する地位にあったが、幕府から所領のほとんどを奪われて没落し、代わって守護の若狭忠季が太良保の地頭となった。建保四年(一二一六)、知行国主とみられる源兼定は、後鳥羽院母の七条院が建立した歓喜寿院の修二月雑事料として太良保の年貢を充てたため保は荘園となり、承久三年(一二二一)四月には正式に歓喜寿院領太良荘として立荘された(せ函四)。しかしこの直後におこった承久の乱の結果として、七条院領である太良荘は国衙に没収されて再び太良保となり、勝ち誇る地頭若狭忠清は公文職や百姓名を押領し、些細なことに言いがかりをつけて農民たちから科料(罰金)をとるなど、その支配は横暴を極めた。 
写真119 東寺五重塔(京都市南区)

写真119 東寺五重塔(京都市南区)

他方で、真言宗の根本道場である京都の東寺の長者であった菩提院行遍は、さまざまな方面に働きかけて太良保を仁治元年(一二四〇)に本家を歓喜寿院、領家を東寺とする荘園に復することに成功する(イ函八)。預所代官として現地に下った真行房定宴は、地頭の非法に苦しみながらも抵抗を続けていた勧心・時沢・真利らの農民を支援して地頭を訴え、寛元元年(一二四三)と宝治元年(一二四七)に幕府より荘務の権限は領家・預所にあるという勝訴の判決を得た(ほ函八、エ函二)。しかし、正安四年(一三〇二)に地頭若狭忠兼が罷免されるという大きな変化が生じ、代わりに得宗が地頭となって検注を行ない現地を支配したため、東寺の支配権は年貢を受け取るだけのものになってしまった。
 鎌倉幕府が滅んだ元弘三年(一三三三)七月、後醍醐天皇は得宗領であった地頭職を東寺に寄進したため、太良荘は東寺の本所一円の地となる(せ函南一〇)。南北朝内乱期の文和三年(一三五四)守護細川清氏の入部とともに半済が行なわれるようになり(ハ函三〇)、その後の幕府の再三の停止命令にもかかわらずこの半済は続けられ、また貞治六年(一三六七)に幕府に背いた斯波高経に従ったとして、定宴の子孫が任じられていた預所職も守護に没収されている(ハ函六六)。室町期には守護による段銭・夫役などが連年のように賦課されたので、荘民も東寺も守護役の免除を意味する守護使不入を求め、一色氏支配下の永享六年(一四三四)と武田氏支配下の文安四年(一四四七)・宝徳二年(一四五〇)に 将軍より守護使不入を認められている(せ函武七二、マ函八五・八六)。しかし、武田氏のもとでは半済方給人山県氏が現地に土着して預所方をも合わせて支配するようになり、この守護使不入も無視され、さらに本所方に対しても検断権を主張するようになって、東寺の支配は後退していった。そして応仁の乱が始まると本所方の年貢は武田氏家臣に配分されるようになり、東寺領荘園としての歴史は終わる。
 ところで太良荘は、領家方・地頭方に分けて構成されており、南北朝期以降の東寺一円支配下でもこの区分は維持された。以下では、それぞれの特質について述べてみよう。



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