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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
     三 対外交易と湊津―敦賀と小浜―
      敦賀の住人たち
 古代の敦賀港は、気比社に近い東の入江と、松原客館や松原駅が設けられていた笙ノ川河口西方の西の入江の二つを中心にして、その周辺に広がっていたと推定されている(通1 図49)。鎌倉末期になると気比社門前町も形成され始めるが、平安末から鎌倉期にかけては、河川の氾濫による河川敷の変化や入江の移動などもあって、港湾や町場の発達はなお十分でなかったらしい。しかし、藤原隆信の「こしぢ(越路)」を歌った歌の詞書に、「つぎ(次)の日くれぬれば、つるが(敦賀)といふところにとまりしに、うかれめ(女)どもあつまりて歌うたひなどせしに、心ぼそさもすこしなぐさみて」とある(「藤原隆信朝臣集」)。遊女が群居して行客の旅情を慰めているから、陸揚げされた船荷を収納する倉庫だけでなく、少なからぬ旅亭が建ち、人びとが行き交う港の賑わいを想像できる。
 敦賀は「唐人」が来着するだけの場所ではなかったようだ。石山寺が所蔵する「金剛頂瑜伽経十八会指帰」奥書によって、白山参詣の旅にでたある僧が、敦賀津に立ち寄って「唐人」黄昭に同経の書写を依頼していることがわかる。彼は参詣から帰ってきた康和二年(一一〇〇)の秋、黄昭から完成した写本を受け取り、その事実を奥書に認めた(資1 石山寺所蔵文書)。筆墨に巧みな宋人が敦賀にとどまって、経論の書写など文筆活動を行なっていたのであろう。
 元永二年に藤原顕頼が錫を得たときも、仲介者である若狭の有力住人は、当国では国守の苛法によって一、二年ほど「唐人」の着岸がないので、敦賀の「唐人」のもとに人を遣り、かろうじて三〇斤を入手したと証言している(資1 東寺本東征伝裏文書)。同時期博多の付近には「大唐街」という中国人居留地があったが、これらの事実から敦賀においても「唐人」集団の居留を推定しうるだろう。



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