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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
     三 対外交易と湊津―敦賀と小浜―
      海のネットワーク
 右に登場する若狭の有力住人は、実は天皇家の御厨子所の所領である大飯郡内浦の海人を統轄する地位にあった。
 同時期成立の『今昔物語集』には、佐渡国人が沖中で強風に遭い、遠い異島に吹き流された話(『今昔物語集』巻三一―一六話)、能登国光島浦の海人が船で一日一夜走る距離にある鬼の寝屋島を訪れて鮑を採集していたが、国司の苛政により越後に逃亡した話(同 巻三一―二一話)、加賀国の漁民たちが、その寝屋島より遠い猫島に漂着して新漁場を開拓した話など(同 巻二六―九話)、日本海域を移動する漁民の活動が描かれている。興味深いのは、最後の猫島が「近来モ遥ニ来ル唐人ハ先、其島ニ寄テゾ、食物ヲ儲ケ、鮑・魚ナド取テ、ヤガテ其島ヨリ敦賀ニハ出ナル」といわれていることである。こうした北陸の海民と「唐人」たちとの日常的な出合いが、敦賀・若狭の「唐人」たちと前述の錫を調達した海民の首領との人的な結びつき・交流と、複雑に重なり合っていたのであろう。
 現存の史料では、唐人の越前・若狭・丹後などへの来着は一一一〇年代までに限られている。史料の残存状態という偶然に左右されて以後なかったようにみえるのか、それとも実際この航路は衰えたのか難しいところであるが、若狭では国守の苛政によって近年「唐人」の着岸がないとあったから、本当に後退したのかもしれない。この時期は、東アジア全体でみると、一一一五年金の建国、一一二二年遼の都燕京への金軍の侵入、一一二五年遼の滅亡、一一二七年北宋が滅亡し南宋が成立するという激動の時代である。先の『今昔物語集』の猫島経由の「唐人」などは、能登国の位置と交流の伝統よりみて、渤海や遼の商人の来航をさしていたとみることもできる。政府の制止をかいくぐって、交易のため日本の「商客」が「切丹国」(遼)に赴いた事実もある(『遼史』二五・七〇、『中右記』寛治六年六月二十七日条など)。中国での王朝興亡が、来着の途絶のような形で影響を現わしていた可能性を留保しておきたい。



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