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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
     三 対外交易と湊津―敦賀と小浜―
      稲庭氏と西津
 『吉記』の承安四年(一一七四)八月条から九月条にかけて、「久永御厨訴え申す、若狭三河浦住人時定濫行のこと」「久永御厨訴え申す、若狭在庁時永のこと」という記事がみえる(資1 「吉記」同年八月十六日・九月十七日条)。ここにみえる三河浦は、三方郡常神半島の先端近い御賀尾浦(三方町神子)のことであり、京都新日吉社領である三方郡倉見荘の飛地である。そして「若狭三河浦住人時定」「若狭在庁時永」はおそらく同一人物ないしは近親の関係で、若狭国の在庁官人の頂点にある稲庭権守時定本人もしくは若狭中原氏の一族であろう。時定は有勢在庁の筆頭者、在国司であると同時に、若狭の浦を活動の拠点としていたのである。遠敷郡の内外海地域の東端に位置する多烏浦も、時定の命により大飯郡佐分利郷より在家を移築して浦としての出発をしたという(秦文書一四号)。
写真4 三方郡御賀尾浦

写真4 三方郡御賀尾浦

 時定の乱行を訴えている久永御厨は、長講堂領伯耆国汗入郡久永にあった。とすれば、この紛争は山陰道から若狭を経由して京都に運ばれる公納物に対し、時定が津料を課したことを発端とする紛争であろう。
 この問題については、御厨側の訴えどおり処理せよ(すなわち津料は違法)との後白河院の裁定が下った。そのとき院司として久永御厨の訴訟を管掌したのは中宮権大夫、すなわち平時忠である。だが九月になって時永の反論が国守平敦盛を介して送られてきているので、対決は継続していたようである。しかし御厨が長講堂領という天皇家領に属し、院が御厨側に立った裁決を下した以上、時定の逆転勝利はありえない。ここでは、権門勢家と在地勢力の利害が対立し在地側の敗退で終わったこと、平氏が時定にとって頼みにならない存在であることに留意すべきである。
 平安末期の若狭の港で注目すべきは西津であろう。文治元年(一一八五)もと後白河院庁の主典代安倍資良は、「若狭国西津勝載使」の収益権を神護寺に寄進している(資1 神護寺文書)。彼は遠敷郡小浜の東湾にあった西津の荘園化に寄与した人物で、勝載使は前にみたように津務(港湾施設の整備)を司る役だった。資良は西津に関係し、船荷への賦課を収益としていたのである。西津という以上東津があったはずで、東津は気山津かもしれない。西津は若狭国衙にも近い。気山津に代わって国衙の外港として新たに発展してきたのが、西津の湊であろうか。
 



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