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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    二 若越と日本海文化
      潟湖と地域勢力の成長
 北の海つ道(日本海海上ルート)による人や文化の交流に次いで、地域拠点の形成についてはどうであろうか。古代の日本海域の一般的な特長としては、潟湖の近辺に地域の有力首長が成長し独自の政治勢力を形成したということがある。一例ずつあげれば、若越より西では丹後の、東では邑知潟周辺の政治勢力である(門脇禎二『日本海域の古代史』)。
図49 古代敦賀の地形と交通手段

図49 古代敦賀の地形と交通手段

 しかし、若越の場合、右の特長は、そのままにはあてはまらない。たしかに、図49のような敦賀の沿岸部の古地形は敦賀津の東西に潟が復原される(南出真助「古代敦賀津の中世的変容」『人文』二四)。それらの潟を前にして、政治勢力以上に権威をもつ気比社が成立し、その権威は山陰の但馬から東北にまで及んでいった(現在の気比神社は、西は兵庫県豊岡市から東は青森県上北郡下田町にわたって認められる)。だが、ここ以外には、若狭には複雑な出入りの海岸線のため、至る処に良い小港があったし、一方、嶺北の長大な海岸線には、潟湖は西の丹後や東の加賀・越中などのようには発達しなかった。ただ三国港周辺や高須川河口には潟湖が復原できる可能性はある。しかし、越前では、地域の政治勢力はむしろ九頭竜川の中流域に形成された。これは、日野川流域についても同様にいえる。要は、広大な越前平野ではあったが、それら大河の多くの支流のため低湿地が多かったことも一因であろう。しかしながら、それでもなお、若越における政治勢力の形成は、日本海の東西にわたる広い文化交流を背景にしていた。その点も三項において確かめられるであろう。



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