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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    二 若越と日本海文化
      文献史料の語るもの
 日本海文化の特色を若越について確かめてきたが、地域独自の文化の形成に関しては、すでにこれまでにもおもに考古学的な知見にふれて指摘した。この点を、さらに文献史料によって確かめていく場合、若越において注目されるのは、何といっても気比神とその信仰の問題であろう。しかも、気比社の神威は、たんに若越の範囲にとどまらず、ヤマト朝
廷をはじめかかわるところは広い。そのため、次にとくに一節をたてて述べたいと思う。ここでは、文献史料から知られるほかの一、二について述べておく。
 直接には越前の隣国にかかわることだが、大伴家持は二九歳のとき、初めて国司となり越中国へ赴任してきたが、この時期から『万葉集』にみえるかれの歌風は、北陸を「天離る鄙」と意識しつづけてはいたが、相聞歌などは急速に減り、逆に自然詠は深化し、また山上憶良の歌風と融合した「ますらおぶり」をつくるなど、大きく変わり、また歌境も広がりをみせてきた(吉井巌「越中守家持の作品をめぐって」『日本文学研究資料叢書・萬葉集』一)。その家持は、部下の史生尾張少咋が女性に心を奪われ、勤めがおろそかになったとき、これを諭し教えた歌の中で「大汝少彦名の 神代より 言い継ぎけらし 父母を 見れば尊く」(一八―四一〇六)と詠んでいる。つまり「神代より」というとき、コシの地にいたればこそ、天照大神でなく大汝・少彦名神という発想になったと思う。かれは、ヤマト貴族としてもちろん高天原神話もよく知っていた。だから一方では、「葦原の 瑞穂の国を 天降り 領らしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね」(一八―四〇九四)とか、「天照らす 神の御代より 安の川 中に隔てて 向い立ち 袖振りかわし」(一八―四一二五)のような歌を詠んでいるのである。むしろ、『記』『紀』神話がかれの基本的な教養であった。そのような家持が、越中守として赴任した期間にはわざわざ大汝・少彦名神の名を用いて神代を詠い起こしているのである。この点に留意できるか否か、日本海文化を視野に置くかどうかで、万葉歌の解釈でも非常に変わってくることの一例としたい。
 また、少し時代は下るが、後述するように越前国司には、渤海語や漢詩文に堪能な官人がとくに配されていたことや、北陸地方に越中に定住した渤海官人から渤海語を学んだと思われる史生や習語生出身の者もいたことはとくに注目される(第七章第一節)。かれらが、歓迎や慰問の宴など交歓の場において、渤海使らの漢詩に応酬の唱和をしたのである。そうした活動が、酬唱文学ともいうべき漢詩の作品群を北陸の地で生んでいたのであり、それは平安京において『文華秀麗集』『経国集』『菅家文草』などの漢詩集が生みだされたことと分かち難く結びついていた(川口久雄『平安朝日本漢文学史の研究』)。こうしたことも、文化史上の動向において占めた日本海域の独自の所産と役割のなかで理解すべきものと思われる。なお、この時の渤海使は宣明暦をもたらした。この唐暦はこのあと貞観三年以来貞享元年(一六八四)まで、わが国の暦のうちでもっとも長期にわたり八二〇年余ものあいだ用い続けられたのである(門脇禎二『日本海域の古代史』)。



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