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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
     三 対外交易と湊津―敦賀と小浜―
      対外交易・日本海交易
 敦賀は日本海に開けた窓口だから、古くは渤海や新羅、続いて中国との交流が行なわれた。院政が開始されるころから中国船の来着は頻繁の度を加え、承暦四年(一〇八〇)八月には、「大宋国商人」孫吉忠らがやってきた。初め筑前の大宰府沿岸に到着したが、大宰府司の政府への報告に対する返事を待たず小舟で出帆し、敦賀津に着いたという。しかも孫吉忠らは、宋の明州(寧波)の牒状を持参しており、敦賀からその写しが朝廷に送られた(資1 「扶桑略記」同年閏八月三十日条、「水左記」同年閏八月二十六日条)。こうした経過から、当時敦賀と筑前の博多津との間に海外貿易にかかわる独自の海上ルートができていたのではとの意見もある。
写真3 敦賀津

写真3 敦賀津

 その後、永保二年(一〇八二)越前国司が「大宋商客」楊宥献上の鸚鵡を進上、応徳三年(一〇八六)「唐人」のことについて越前国が国解を提出する、寛治五年(一〇九一)加賀守藤原為房が敦賀の官舎で宋人陳苛と会見し、また宋人尭忠も敦賀津に来着する、嘉承元年(一一〇六)越前国が「唐人」来着の解状を進めるなどのことがあり、若狭においても「大宋国商人」や「唐人」来着の記事が散見している(資1 「扶桑略記」、「十三代要略」、「本朝世紀」、「後二条師通記」など)。
 政府は来航した「唐人」を追い返すなど交易に消極的だったが、権力者個人は敦賀津での舶来品の確保に意欲を燃やした。寛治五年、加賀守藤原為房は宋人尭忠との会見ののち、入手した「唐紙」を内裏に献上している(「為房卿記」同年閏七月二日・八月十七日条)。また元永二年(一一一九)には、丹後国守藤原顕頼が敦賀の「唐人」から白鑞(錫)を手に入れている(資1 東寺本東征伝裏文書)。源兼昌の「わ(我)がおれる錦とや見るから(唐)人の つるが(敦賀)の山の峯のもみぢば(葉)」(国歌大観本『夫木和歌抄』)という歌も、舶来物(唐錦)といえば敦賀を連想する院政期貴族の感覚を前提にして初めて理解できるのである。
 また『今昔物語集』の著名な芋粥説話には、越前斎藤氏の伝説的な始祖藤原利仁とその舅の敦賀の館の豪勢なさまが描かれている(『今昔物語集』巻二六―一七話)。そもそもこの説話集は二話一類様式といって、内容的に連関し連想を誘う二つもしくは三つの類話を並べるという編集方針をとっている。芋粥説話の前の段には「鎮西ノ貞重ノ従者、淀ニ於イテ玉ヲ買ヒ得タル語」という話が配されており、中国商人と交渉貸借のある貞重という「勢徳ノ者」が登場する(同 巻二六―一六話)。これらのことから説話の編者に、利仁の舅の富も中国貿易によるものという意識があったと読むことが可能といわれている。こうして、院政期の敦賀は、都人に高価珍奇な外国品の到来する場所であり、富のあふれる港とみなされていたのではないだろうか(通1 六章五節参照)。
 



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