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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
     三 対外交易と湊津―敦賀と小浜―
      敦賀の展開
 北陸道方面の租税は、古代以来敦賀で陸揚げされ琵琶湖経由で中央に運ばれた。九世紀の後半になると、北陸道の各地で、都から派遣された権門の使者が徒党を組んで、調庸官米を中央に運送する駄馬や運船を路頭・津辺で強制的に雇い上げることが政治問題化している(資1 「類聚三代格」巻一九)。国家の必要より自家の利害を優先させた院宮王臣家の動きであるが、こうしたなかで、敦賀津も官港としての伝統に加え、権門勢家の私的運送路の要津として賑わうようになっていった。
 治暦元年(一〇六五)には、敦賀や若狭三方湖にある気山津などに刀とよばれる複数の役人がいて、勝載料(船荷の積載料に応じて課せられる港湾修理費)・勘過料(関銭)と号して公物の一定部分を割き取り、綱丁(運送業者)を虐待して積荷を抑留すると訴えられている。彼らの行為は太政官符で禁止されているが、港湾施設の修理や通関業務など公的職務に携わる現地管理者集団の存在を示している(資1 「勘仲記」弘安十年七月十三日条)。



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