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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    二 在地諸勢力
      若狭の在地領主たち
 これらに対し、若狭の在地勢力はどのようになっていたのだろうか。この国の在庁機構が形成され、その各部局を経済的に支える在庁名の編成が行なわれたのは十二世紀で、中心となって働いたのが遠敷・三方両郡に広く根を張る中原氏一門だった。彼らの代表格が留守所下文に惣判官代阿波権守中原と署判する在国司の稲庭氏で、平安末から鎌倉初期には時定が当主だった。彼は国衙の税所を握り、遠敷郡の志万・富田・西・東の四つの郷、三方郡の三方郷などの郷司を務め、太良保・恒枝保など多くの荘・保の成立に関与し、下司となっていた。その苗字は遠敷郡太良荘の谷口の稲葉に本拠を置いたからであるが、一門はさらに遠敷郡内の和久里・安賀・鳥羽・瓜生などを苗字の地とした。稲庭氏の性格や存在の様態は、越前斎藤氏をはじめ、安芸の葉山、石見の益田、紀伊の湯浅など世に知られた地方有勢者との共通性が大きい。
 在庁官人にはほかに、藤原氏や柿本氏、田所を握る安倍氏があり、若狭平氏の一族や、これと姻戚関係がある小槻氏、三方郡山西郷の惟宗氏などがいた。彼らの一世代後の姿を示す建久七年(一一九六)の「若狭国源平両家祗候輩交名案」によれば、その相当部分が木工允・兵衛大夫・武者所を称している(ホ函四)。なかには内乱以後その地位を獲得した者もあっただろうが、「先々源平両家祗候輩」というように平氏に随従した経験もある。平氏時代の在京勤務と権門への奉仕の成果ではなかっただろうか。



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