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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    二 在地諸勢力
      気比社
 長治元年(一一〇四)六月、越前国守高階為家の非法を訴えるため、気比社の神人が神輿を担いで入京し、内裏陽明門にいたった(資1 「中右記」同年六月十九日条、「殿暦」同年六月十三・十四・十九日条)。国守の苛政・非法を訴えるときには、陽明門で訴状を提出するのが前代よりの定まった作法である。訴えの内容は未詳だが、この行動に対し「近日天下の大衆・神民、大小を論ぜず、かたがたもって蜂起す、末代の作法なにをかなさん」との評価が寄せられている。
 一方、在京の気比社大宮司(神主)たる中臣氏も院に接近し、白河法皇の白河北殿の新小御所を造進している(『中右記』元永元年七月十日条)。古い伝統を誇り北陸各地の住民の崇敬を受けるこの神社も、確実に新時代を迎えていたのである。越前一宮と位置づけられるようになったのはその現われであり、後白河天皇の権臣藤原通憲も気比社を「福を求むるものは福を得」「寿を求むるものは寿を得」と賛迎した(「筆海要津」)。
写真2 気比社(敦賀市曙町)

写真2 気比社(敦賀市曙町)

 平安末期になると、気比社は京都の八条院の支配を受けるようになった(資1 山科家古文書)。八条院は美福門院得子と鳥羽法皇の間にできた女子で、同院領は最大の天皇家領荘園群の一つである。同社の周辺の地が敦賀郡気比荘で、鎌倉後期の「昭慶門院御領目録」には、「(藤原)惟方卿以下」により興善院に「寄付」されたとある(資2 武内文平氏所蔵文書一号)。興善院は鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院の末寺で、京都九条にあり、惟方の父顕頼が建立して寄進した。顕頼・惟方の父子は、前にみたように鳥羽院・美福門院の身辺に奉仕した人物である。ところで別の文書によると、承安三年(一一七三)九月、八条院領と民部卿三位局および惟方卿弁局が相伝してきた所領合わせて一六か所が、弁局の手によって興善院に寄進されている(白河本「東寺百合文書」一四九)。民部卿三位局は顕頼の娘、弁局も惟方の娘で、両者はオバ・姪の関係にあたり、ともども八条院に女房として仕えた女性たちである。「昭慶門院御領目録」が「惟方卿以下」といっているのは実際には弁局のことで、気比荘は三位局や弁局が相伝してきたこの所領群に含まれていたらしい。そして八条院庁は、承安三年の興善院への寄進後も、これらの荘園支配の実際の権限が弁局の後胤(子孫)にあることを宣言している。少し煩雑になったが、支配関係でいうと八条院が気比荘の本家で、弁局の立場は領家(預所)職である。おそらく越前守であった永治年間(一一四一〜四二)のころ同荘を入手した藤原惟方が、それを主人であり越前の分国主でもあった美福門院に寄進し、以後気比荘支配の実際を預かる形になったのであろう。気比荘の領家職はそののち娘弁局に伝えられ、さらに同荘が名目上八条院領から興善院領に管理替えとなるに及んで、彼女の権利が改めて確認されたというのが事の経過らしい。
 なお、河合系斎藤氏の平泉寺長吏であった広命の兄範重は気比社司になっていた(『尊卑分脈』)。斎藤氏勢力の敦賀郡への浸透として注目される。また鎌倉初期に、日吉神人兼「気比大菩薩神奴」であった養父の跡を継ぎ、「当郡」(敦賀郡)に居住してすでに四〇年を経たと主張する人物がいた(資2 醍醐寺文書一〇号)。彼は越前守護に内裏大番役を催促されるような存在であると同時に、平安末期以来、日吉神人兼気比社の神人であった。気比社に一定の負担を負いながら、北陸道諸国で運送などの活動を営んでいたのであろう。
 



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