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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    二 在地諸勢力
      滝口入道など
 越前斎藤氏は、在地社会に領主制の構築を進めるとともに、都に出て官職を得ようとした。この一族の中央志向は院政期以前からの伝統で、特に滝口に任じられているのが注目されている。滝口は蔵人所に所属し天皇最身辺に伺候する警固の武士である。平安末期でも、高倉天皇の滝口として藤原宗光・宗親・宗貞、安徳天皇の滝口として藤原実康・時員・時頼などが、確実な史料で確認される(『兵範記』仁安三年二月二十八日条、『山槐記』治承四年三月四日条、『吉記』治承五年四月十六日条など)。
 時頼は、『平家物語』に「三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひし者なり、もとは小松殿の侍なり」と出てくる。建礼門院の雑仕横笛との悲恋によって遁世したという滝口入道のことである。彼の父左衛門大夫以頼は疋田系斎藤氏であり、治承三年(一一七九)段階では右兵衛尉であった(『山槐記』同年十二月十一日条)。三条は京都での宿所の地名を称したものであろうか。小松殿は越前知行国主の重盛(維盛)家のことである。そして祖父以成も、保元二年(一一五七)八月の藤原基実の任右大臣の大饗の場に右兵衛尉として姿をみせている(『兵範記』同年八月十九日条)。
 時頼の若年の出家入道は史実で、「滝口藤原時頼法輪寺において出家、年十八、帥典侍の乳母の子なり、道心に依ると云々、当時滝口の遁世定めてその例無きか」と記される(『吉記』養和元年十一月二十日条)。帥典侍は、清盛義弟の平時忠の妻で安徳天皇の乳母である。時頼は、安徳が即位すると彼女が保有する官職の任命権枠を使って滝口になっている(『山槐記』治承四年三月四日条)。安徳の東宮時代に帯刀の連(帯刀の最後尾)であったのも、帥典侍の推挙によってであろうか。
 高倉天皇滝口の宗貞・宗光については、延慶本『平家物語』に、平家の都落ちのさい維盛の侍たる斎藤五宗貞・斎藤六宗光の兄弟がどこまでもお供をしたいと申し出る場面があって、両名は中世軍記物で著名な斎藤別当実盛の子供という設定である。実盛も越前斎藤氏の一族で、武蔵国長井(埼玉県妻沼町長井周辺)に住したので長井斎藤別当と称した。二人は実盛の猶子という形で維盛家に奉仕したのであろう。
 ほかに、一ノ谷の戦いで討死した平通盛の侍に藤原時員がいる。これも前述の安徳天皇の滝口時員であろう。通盛が越前守であったとき主従関係を結んだものであろうか。



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