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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    二 在地諸勢力
      越前斎藤氏
 利仁将軍を伝説的始祖とする越前斎藤氏は、疋田系と河合系の二流に分かれて発展した(通1 六章二節参照)。前者はその苗字から判断して、坂井郡金津町の北疋田・南疋田、丸岡町の里竹田・北千田・千田・宇田の付近を主たる本拠とし、越前平野の東北隅の竹田川中流域にほぼ集中している。後者は九頭竜川と日野川の合流点北東地域および福井市八幡町から一王子町の一帯を初期の本拠とし、福井市街東北の松本、福井市の南東方の稲津町・小稲津町、市域南端の東大味町・西大味町のあたりに進出した(通1 図98)。
 両斎藤氏を比べると、在地により強い基盤を形成したのは河合系らしい。『尊卑分脈』に「河合斎藤の始め」とある助宗は、中央の史料に「越前国住人輔宗」とみえ(資1 「本朝世紀」康和五年二月三十日条)、その孫実澄も「当国住人新介実澄」として登場する(資1 「吉記」養和元年九月十日条)。そして『尊卑分脈』では、助宗の父則重は「越前権介」「吉原介」、実澄は「越前介」と注記されている。
 これらの「介」は、当時「在国司職」とよばれた越前の在庁官人の筆頭者・最有力者の地位を表わす。すなわち、国守が任国に赴任しない遥任制がさらに進行したこの時期、現地の国務執務組織たる留守所は、郡司級の豪族が結集した「官人」と、国衙の諸機構を分掌する専門家集団の「在庁」によって運営されるようになっていた。合わせて広義の在庁官人であるが、前者は「在庁」を統轄しながら、国内大社の神事への関与をはじめ、国司の機能を在地で体現する役割を果たしていた。彼らは国司四等官の介以下の任用国司になぞらえ介・権守・権介などの肩書をもつようになるが、これらは国守の補任と代々の相伝によるもので、県召の除目(朝廷の除目)とは直接関係がない。
 越前留守所を構成する在庁官人については、平安末の「在庁」である「糺二郎大夫為俊」「安二郎大夫忠俊」(資1 「源平盛衰記」爾四)、鎌倉前期の建保六年(一二一八)の留守所下文に連署する「散位大江朝臣」「散位伊部宿」「散位品治宿」などが知られるに過ぎない(資2 妙法院文書一号)。糺為俊は日野川中流右岸、鯖江市域の糺の地を本拠とする人物だろうし、大江・伊部・品治各氏は古代以来の当地の名族である(『姓氏家系大辞典』)。ともあれ、留守所筆頭の介を名乗る河合系斎藤氏が、国衙に結集したこの国の在地領主たちのなかで最高の威勢を誇るものであったことは動かない。
 「在国司」の国内神事への関与と関わって注目されるのは、平安末から鎌倉初期の斎藤系図に「白山長吏」または「白山平泉寺長吏」の注記をもつ者が四人いることである(『尊卑分脈』)。同時期斎藤一族が平泉寺の在地側責任者たる長吏の地位を世襲していたようで、その継承順は、賢厳(疋田斎藤)―広命(河合斎藤)―斉命(河合斎藤)―実暹(河合斎藤)と推定されている。ここでも河合系斎藤氏が優勢である。河合系斎藤氏が「在国司」として国内大社の神事統轄の主体になったのであれば、白山平泉寺の長吏の地位に手を伸ばすこともさして不思議ではない。平泉寺の掌握は、信仰や祭祀の領域においても、斎藤氏が国内在地諸勢力のなかで優越的な地歩を獲得していたことを意味する。
 なお安元三年(一一七七)四月から五月にかけて、都とその周辺では山門の強訴、天台座主明雲の所領没収と配流の決定、配流中の明雲の僧徒による奪還などの政治的緊張が連続している。加賀の目代藤原師経の白山宮への非法に端を発する事件だが、そのなかで、近江・美濃・越前三か国の各国守に「国内武士」の調査上申が命ぜられた(資1 「玉葉」同年五月二十九日条)。山門への対抗の必要からであろうが、名簿を作成して国守に送付したのは各国衙在庁であり、その作業の越前での責任者も河合系斎藤氏であっただろう。
 越前斎藤氏が在地で率いた兵力については、平泉寺長吏斉命の場合「一党五十余人」(延慶本『平家物語』)、稲津実澄で「一党五十余騎」(長門本『平家物語』)とみえている。そもそも日本の合戦について通常語られる動員数や死傷者数は、さまざまな先入観や非学問的通念の産物で、異常に誇張されている。右の場合も、誇大がつきものの軍記物にみえる数字であることを思えば、むしろ彼らの動員可能の上限を越えているかもしれない。



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