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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    三 越前斎藤氏
      河合系斎藤氏
 『尊卑分脈』では則光と子則重が吉原を称し、孫助宗にいたって「河合斎藤始」の注記がみえる。助宗は「越前国住人輔宗」と中央の史料に登場する人物である(『本朝世紀』康和五年二月三十日条)。その子成実の系列から坂南・都筑・脇本、成実の弟の景実から稲津・松本・大見などの名字が出現する。則重の弟孝則の系譜からは粟生氏が生ずる。
 右の名字の地の現地比定もなされており、河合は足羽郡河合郷、すなわち九頭竜川と日野川の合流点北東地域、坂南は坂井郡の坂南本郷にあたる地域、福井市八幡町から一王寺町の一帯とされる。これらが河合系斎藤氏の初期の本拠で、そのほか稲津は福井市の南東方の稲津町・小稲津町、松本は福井市街東北部にその名をとどめる。大見は福井市東大味町・西大味町のあたりのようである(浅香前掲書)。
 以上要するに、疋田系・河合系斎藤氏は越前平野の南北に呼応する形で展開している(図98)。「白山豊原寺縁起」に「坂南北、是れ則ち豊国の家領也」との記述がみえるから、斎藤氏(溯って秦氏)の本来の勢力圏が、坂北の疋田系、坂南の河合系とに分割された可能性がある。
図98 越前斎藤氏の分布

図98 越前斎藤氏の分布




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