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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    三 越前斎藤氏
      疋田系斎藤氏
 越前斎藤氏は、疋田系斎藤氏と河合系斎藤氏に分かれて発展した。前者は為延の子孫、後者は則光の子孫である。為延・則光以降の世代についても、『尊卑分脈』の記載を中心に考察する(図96 疋田系・河合系両斎藤氏の系譜)。  まず疋田系斎藤氏である。『尊卑分脈』の為延の傍注には「疋田斎藤始」とあり、その子為輔の子が方上四郎大夫を名のっている。為輔の弟為頼の子が頼基・成真・為永で、それぞれ竹田四郎大夫・宇田五郎・疋田掃部大夫を称した。これらの名のりは、為延の子孫が各自の代になって本拠と定めた地、いわゆる名字の地にもとづく。本領とし屋敷を構える地名をとって名のりとする、これが名字(のち苗字とも書いた)である。彼らはここに来て、公式の場で使う藤原という本姓やそこから派生した斎藤という姓以外に、日常用の疋田・方上・竹田などの姓を名のりはじめたのである。さらに竹田氏から大谷氏が、宇田氏から葦崎・志比氏が、疋田氏から千田・熊坂氏が分立した。
 疋田・方上・竹田・宇田などの所在地について、疋田は『姓氏家系大辞典』のいう敦賀郡疋田(敦賀市疋田)でなく、坂井郡金津町の北疋田・南疋田、竹田・千田・宇田はそれぞれ丸岡町の里竹田、北千田・千田・宇田の付近、方上は鯖江市北東部の旧今立郡片上村に相当するという見解がある(浅香年木『治承・寿永の内乱論序説』)。足羽郡との郡境に近い今立郡の方上を除くと、あとはみな越前平野の東北隅、竹田川中流域に集中しているという説である。この判断は現在地名や敦賀疋田の地形的特徴、近世地誌類にみえる利仁将軍伝承地などを総合したもので、合理的な根拠をもっている。加えて、「白山豊原寺縁起」(豊原春雄家文書『資料編』四)を重視している。
 豊原寺は丸岡町の市街地から東へ約四キロメートルの山間にある廃寺で、泰澄の草創といわれている。中世では平泉寺(勝山市)・大谷寺(朝日町)とともに、越前を代表した白山系の大寺であった。縁起の末尾には元禄十六年(一七〇三)の年紀があるが、内容は応永二十三年(一四一六)までのことを述べており、原型は十五世紀中葉には成立していたようである。縁起の第三段には、利仁の崇敬のあとをうけて豊原寺が「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」によって支えられてきたとあり、続いて天治元年(一一二四)疋田以成が豊原寺を再興した事情が述べられている。
図97 以成関係者の系譜

図97 以成関係者の系譜

 記述にあらわれる以成の関係者の系譜は図97のとおりである。まさに『尊卑分脈』の当該部分と照応する。また縁起は、疋田為永の娘を妻にし、以成を生ませた大江通景の肩書きを伊勢守としている。これも事実であって、彼は天治元年当時には前伊勢守で白河院の院庁の主典代であった(『高野御幸記』同年十月二十一日条)。「白山豊原寺縁起」には、東国群党蜂起にあたり利仁がこの豊原寺と鞍馬寺に参篭して鎮圧の成功を祈願した記事があり、「鞍馬蓋寺縁起」を下敷きにした跡が明瞭である。ゆえに、史料としてのオリジナリティや信憑性については慎重を要するが、一応『尊卑分脈』とは別系統の所伝が越前在地に存在しており、それを基本に、「鞍馬蓋寺縁起」などを付加したものと考えておきたい。
 「白山豊原寺縁起」は、利仁の母秦豊国の娘を「当国押領使長畝大夫豊国の娘(字豊閇姫)」としている。長畝は丸岡町長畝にあたり、これを荘域内部に包含していたのが長講堂領坂北荘である。この点は、彼らの祖貞正や為延の拠点を越前北部に想定したこれまでの叙述と矛盾しない。



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