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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    二 武者の家の形成
      越前国押領使
 在地での存在形態とかかわって、越前国押領使が問題となる。『尊卑分脈』では伊傳・為延・則光にいずれも越前国押領使の傍注がついている。越前では溯る天暦六年(九五二)三月、国司から太政官に追捕押領使の停止申請が出されている(編六三〇)。押領使の「随兵士卒」がその威を借りて国内を横行し、犯罪を口実に「人民を脅略」するので、管内が静まらないというのが理由である。
 追捕押領使が国単位に置かれたのは、国司支配に反抗する者を軍事的に抑え込むための措置であったはずだが、ここでも彼らが秩序の紊乱者としてたちあらわれているのである。年代からいって、押領使が藤原伊傳である可能性は少ないが、よく似た性格の在地豪族だったのだろう。
 押領使には、追捕押領使のほか諸陣押領使・官米押領使が知られている。前者は一陣をあずかる戦闘指揮者である。後者は、平時官物を京都に輸送する護送兵の長としての押領使で、国衙が「武者の子孫」を指名することによって成立する(戸田芳実『初期中世社会史の研究』)。中央での立場からすると、為延や則光が常時運米警固の業に携わったとは考えにくい。あるいは中央に登場する以前の若年のころ、運米押領使の地位についていたものであろうか。



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