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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    三 越前斎藤氏
      在地領主の出現
 このように一族が相異なる名字を名のるようになるのは、それぞれが自らの家の独立性を主張しだしたことを意味する。また、本拠の地名を名のるところに、従来とは違った土地に対する親密な関係が生じはじめたことが示されている。この現象が顕著になるのは、為延や則光の孫・曾孫の世代で、絶対年代でいえば、およそ十一世紀後半から十二世紀前半のころだった。それは偶然でも一地域に固有のものでもない。同時期は、全国各地の農村に新しい胎動が顕在化した時期なのである。その状況を要約すると、以下のようになるだろう。
 これより以前、摂関期の農村は、今日では想像もつかない荒涼たる景観を呈していた。未開地が多く、既耕地でも畠の比重が高い。水田は荒田が多く、連年の耕作にたえない不安定耕地も少なくなかった。そこで十一世紀以降の国衙は、未開の荒野・空閑の開発と荒廃公田の再開発を奨励し、後者のために荒野開発なみの特権を与える政策的対応をとった。
 こうしたなかで開発(再開発)に取り組んだ人びとに、国衙の勧農を私的に担った在庁官人・郡郷司、さらには中央の中下級官人や中央大寺社の僧侶・神人らがいた。当時私領主とよばれた人びとで、彼らの一部は十一世紀後半になると、土地と住民に対する支配力を強め、そのなかから在地領主(開発領主)とよばれる階級が登場してくる(高橋昌明「中世社会の展開」『中世民衆の世界』)。
 為延や則光までの地方留住は、まだ私領主の段階にとどまっていたが、名字の地を名のる彼の子孫たちは、在地領主へと前進した姿を示している。もちろん、没落しつつあった古い地方豪族とも質的に異なる、新しい型の農村支配者だった。
 摂関期の不安定耕地は、天水に頼るなど水利施設の貧弱さに主な原因があったから、開発・再開発は潅漑・排水施設などの整備、河川の統御や用水路の掘削など、用水面での前進なしにはありえない。
 疋田系斎藤氏の領主経営の基盤が、東大寺領桑原荘の旧地など竹田川中流域の自然堤防の後背湿地の再開発と、坂井郡北部平地への水源の支配にあったらしいこと、河合系斎藤氏のそれが九頭竜川・日野川合流点のつくる三角州上や足羽川の扇状地・三角州上に展開したことは、彼らがこれら河川の統御と利水において、ある程度の成功を収めたことを物語っている。彼らの名字は、自らの開発(再開発)行為とその後の経営によって、新たな生を吹きこんだ大地をふまえていることの宣言であり、新しい社会関係が創出されたことの主張でもあった。
 なお、今立郡方上は摂関家の当主が代々相続する殿下渡領方上荘の地で、ここは延長五年(九二七)以前に立荘された荘園である(『貞信公記』同年十二月五日条、記一)。十世紀中葉の方上荘惣別当は足羽郡庁検校の生江氏であった(寺六二)。その地がこの段階になると疋田系斎藤氏の名字の地となり、さらに鎌倉後期にははっきりと両斎藤氏による下司職争奪の対象となっている(石田祐一「諸大夫と摂関家」『日本歴史』三九二)。ここには古代豪族と新興の在地領主との間の、支配権の交替劇も想定される。



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