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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    一 十世紀以降の東アジアの変動・再編と日宋貿易
      変動する東アジア
 九〇七年に唐が滅亡したのち、五代十国の争乱の時代を経て、九六〇年に宋朝を興した趙匡胤によって、九七九年に中国は再統一される。社会の混乱が治まると、農業・手工業などの飛躍的な社会経済の発展を背景に、宋の商人が日本・高麗など東アジアのみならず東南アジアにおいても活発な活動を続けるようになった。
 とくに北方異民族との戦争状態が続いたことにより、宋の政府は財政難に陥ったため、海外貿易を奨励した。そして、貿易を管理するために、市舶司を杭州・明州・泉州・広州に置いて関税を徴収したり、貿易品の専売を行ったりして莫大な収入をあげた。宋船は東アジアおよび東南アジアの国ぐにと盛んに交易したが、日本へは北九州を中心に来航した。当時、日本側の貿易の窓口は原則的には大宰府であった。しかし、貿易をめぐって大宰府の官人(府官)とトラブルが発生したことや平安京に遠いこともあり、しだいに平安京に近い若狭・越前国にも宋船が入港するようになって、日宋貿易は地域的に拡大する。
 一方、朝鮮半島では九世紀末以降、地方の土豪たちの反乱が相次ぎ、さまざまな武装勢力が各地に割拠し、新羅の中央集権的な統制力は急激に失われていった。そのなかから、北部の旧高句麗領を中心に弓裔が摩震を建て、西南部の旧百済領を中心に甄萱が後百済王となり、朝鮮半島は三国が鼎立して「後三国時代」とよばれる状況になる。そののち、弓裔の部将の王建が九一八年に弓裔を倒して高麗を建国した。
図104 10〜12世紀の東アジア

図104 10〜12世紀の東アジア

 王建は地方の土豪を取り込み、九三五年に新羅を併合し、翌九三六年には後百済を滅ぼして、朝鮮半島は高麗により統一された。高麗は宋をモデルとした中央行政機構を整備し、諸制度を積極的にとりいれ、また地方制度では郡県制をしき、支配体制の強化に努めた。外交面においては、北方からの遼・金・元の圧力や侵略にも屈せず、また、北宋・南宋に使を送ってかなり自立的な国家姿勢を示し、一三九二年に李成桂に滅ぼされるまでの約四五〇年間続いた。
 また、渤海は九二六年に契丹族の侵入を受けて滅亡するが、その遺民を高麗が多く受け入れており、文化面においても高麗に継承された部分がある。なお、高麗と日本との外交関係は、正式な使節の交換は結局行われなかったものの、大宰府や対馬を通した交渉・交易が頻繁に行われた。
 



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