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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    一 十世紀以降の東アジアの変動・再編と日宋貿易
      王朝国家の外交方針
 このように十世紀初頭、東アジアでは唐・新羅・渤海の各国が相次いで滅び、混乱のなかで新たな王朝が勃興した。変動する東アジアの情勢のなかで、日本の中央政府(王朝国家)の外交方針は、律令制的な外交方針である国家による外交の独占および古代における「帝国主義」的な意識を堅持しつつも、中国大陸や朝鮮半島の情勢に巻き込まれないように情勢を見定める意味もあってか、「消極的な外交政策」をとり、正統的でない地方政権や地方の出先機関に対しては私的な外交として制限を行った。なお、これを「積極的な孤立主義」と考える説もある(石上英一「古代日本一〇世紀の外交」『東アジアにおける日本古代史講座』七)。
 たとえば、五代十国の呉越国が使を派遣して盛んに国交を求めてきたことはあったが、「臣下」とは正式な交渉をもたないとの理由で、日本側は正式な交渉を閉ざしていた。また、中国を統一した宋の政府も日本に対して交渉を求めてきたようであるが、この時点でも日本側は消極的であり、正式な国交はついに開かれなかった。そののち、入宋僧の然・寂照・成尋らが仏教文化を中心に日本と宋との文化交流に尽くすとともに、日本の国情などを宋に伝えているが、国書を持参し奉呈することはなく、まして正式な使ではなかった。しかしながら、宋側は「蕃国」の僧として扱い、然が時の皇帝に拝謁を許されて『職員令』『王年代記』を献上したように、正式な使節に準ずるものとみなされることもあるなど(石上前掲論文)、入宋僧が大きな役割を果たしたのである。
 



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