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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    一 十世紀以降の東アジアの変動・再編と日宋貿易
      日宋貿易とそのシステム
 貿易においては、中央官司の意向による大宰府での先買権の行使、外国商船の来航制限である「年紀制」(延喜年間に三年に一度の来航を許可)を採用しており(森克己『日宋貿易の研究』)、また律の規定にもとづき、「公憑」(渡航許可証)のないものは海外への渡航を禁止する方針を堅持していた。
 宋船の日本来航がうかがえる初見は、天元三年(九八六)ごろとされているが(『小右記』天元五年三月二十六日条)、頻繁となるのは十世紀末からで、若狭・越前国への宋船の来航が知られるのは長徳元年(九九五)からである。したがって、ここでは十世紀中ごろから十二世紀前半の史料を参考にして、十一世紀を中心とした日宋間の貿易管理システム(図105)について述べておく(田島公「海外との交渉」『古文書の語る日本史』二)。
図105 日宋間の貿易管理システム

図105 日宋間の貿易管理システム

まず、明州などを出航した宋商の船が九州地方沿岸に到着すると、付近の郡司や警固所などから解状で国府に報告され、さらに国府より大宰府に宋人来航の旨を記した解が送られる。もし博多津に入港した場合は、付近にある警固所から直接大宰府に知らされた。来航した宋人に対しては官人が派遣され、「存問」がなされた。具体的には、来航の目的、渡航証明書である「公憑」の有無、船主以下乗組員の構成、積載貨物の内容などに関して宋人への尋問・検査が行われる(大宰府から通事、官使が派遣される場合もある)。尋問内容を記した記録は「存問記」とよばれ、それとともに乗船者リストである「交名」(初めての渡航者に対しては、その容姿を描いたパスポート写真ともいうべき「形躰衣裳絵図」の提出を求めることもあった)、「公憑案」(案とは写し、控えのこと)、来航目的や滞在許可を願う宋人の解、積載貨物の内容を記した「貨物の解文」などが、「大宰府解」に添えられ中央政府(太政官)に送られる。外交文書である牒状がある場合は「牒状案」も都に進められた。
 これらの文書は、弁官などを通じて公卿の審議会議である陣定にかけられ、先例や来航の「年紀」に照合し、宋人を安置して交易を許すか、廻却(帰国)させるかについて審議した。陣定で審議し定められた内容は決定ではなく答申であり、定文(答申書)にはさまざまな意見が列記されることも、また一つの意見に集約される場合もあった。このほか、牒状がもたらされた時は、受納し返牒を送るか否かの問題も重要議題となった。陣定の内容は天皇に奏聞され、裁可を経たのち、安置または廻却の決定がなされ、「太政官符」(または宣旨)・で大宰府に通知される。返牒を遣わす際は、太政官が大宰府に指示して大宰府から発給された。安置の場合は博多津の蕃客所(もとの鴻臚館)に滞在させ、そこで衣粮(糧)の供給や官人および民間人との交易が行われた。一方、廻却の場合は食料を支給したあと帰国させるが、交易のみ許す場合もあった。
 交易が許された場合は、まず都から「唐物使」とよばれる使が派遣され(蔵人所の出納・小舎人など)、民間人との交易に先駈けて優先的に買上げが行われた。派遣されない場合は、都よりの買上げ希望のリストを受けて、大宰府が先買権を行使して、代金はそののち都からの「返金使」あるいは大宰府の府庫より支払われた。代価としては砂金などが用いられた。唐物使や大宰府によって購入されたものは都にもたらされ、天皇がそれを見る「唐物御覧」が行われた。実際の例では、大宰大弐など大宰府の官人が先買と称して珍しいものを購入したり、また購入したものの代金で折合いがつかずに未納となるなどのトラブルも多発した。
 一方、若狭・越前国など日本海沿岸に宋船が入港した場合もほぼ同じ手続きを経るが、大宰府のかわりに直接都から存問使が派遣されたり、国司より直接太政官に報告させたりしたのちに公卿の審議となる。しかし、交渉の窓口は大宰府であるとして廻船命令が下されたりした。とくに外交文書に関する場合は、受納や発給は大宰府を通すという方針がおおむね貫かれていた。しかし後述するように、若狭・越前両国での宋人との交易・交流は活発に行われていたようである。
 



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