今月のアーカイブ Archive of the Month

ゲームとつながる福井の歴史 -刀剣と御城- シーズン2

 2017年(平成29)度に開催した月替展示「ゲームとつながる福井の歴史 ~刀剣と城~」。今回の展示は約2年ぶりとなる続編です。
 今回も「刀剣」と「城」が主役の2つのネットゲーム「御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~」「刀剣乱舞」を題材とし、ゲームに登場する「刀剣」と「城」と福井の歴史との関わりについて紹介します。

会期

2019年12月20日(金)~2020年2月19日(水)※終了しました

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丸岡城「北陸に唯一現存する天守」

「越前坂井郡丸岡霞ケ城(絵はがき)」
年月日未詳「越前坂井郡丸岡霞ケ城(絵はがき)」
田中善右衛門家(当館蔵) A0177-00095
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 戦前に発行された丸岡城の天守を題材とした絵葉書です。現存する同様の古写真から、撮影年代は明治時代末期頃と推測されます。
 最近の調査で天守の柱などの部材を調べた結果、建てられたのは寛永年間(1624〜44年)だったことがわかり、天守は現存最古のものではないことがわかりました。
 しかし、天守の外観が下層部の建築後に物見台などの望楼部分を載せる「望楼型」に対し、柱などの骨組みの構造には下層部と上層部を一体的に組み上げる「層塔型」の特徴があります。
 このような天守は全国的にほとんど例がありません。

金ヶ崎城「兵糧攻めにあってひどい目に」

「新刻太平記 目録并釼 十七之八」
年月日未詳「新刻太平記 目録并釼 十七之八」
坪田仁兵衛家文書(当館寄託) C0005-00527
 『太平記』は南北朝時代に成立した軍記物語です。後醍醐天皇の討幕計画から、建武の新政、南北朝の動乱に至る歴史過程を、南朝側の立場から描いています。
 資料は大坂心斎橋筋順慶町の敦賀屋九兵衛が出版した『新刻太平記』で、17巻と18巻が1冊になっているものです。
 1336年(延元元・建武3)、南朝方の新田義貞は体制を立て直すべく、恒良親王と尊良親王を奉じて金ヶ崎城に入城し、足利尊氏が派遣した北朝方の大軍と戦います。
 紹介している部分は、金ヶ崎城が北朝方による兵糧攻めに遭っている場面です。義貞は城を脱出することに成功しましたが、城を救援することはできず、城は落城しました。

福井城「この刀は父にもらったものだ」

「越前世譜 秀康様御代(1)」
1574年(天正2)~1607年(慶長12)「越前世譜 秀康様御代(1)」
松平文庫(当館保管) A0143-01799
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 「越前世譜」は福井藩が作成した公式の歴史書の一つで、資料は結城秀康の時代の出来事を記録したものです。
 1600年(慶長5)、上杉景勝が挙兵し、徳川家康は下野国小山(栃木県)まで軍を進めます。しかし、これに乗じて石田三成が大坂で挙兵します。
 家康は三成と対決すべく西に向かうこととなり、景勝に対する備えとして子の秀康を残すこととしました。
 紹介している部分は家康が秀康に秘蔵の太刀「稲葉郷(江)」を託す場面です。
 稲葉郷は郷(江)義弘作の太刀で、稲葉勘右衛門が所持していたことが名前の由来です。秀康の死後は津山松平家に伝来し、現在は岩国美術館(山口県)で保管されています。

一乗谷城「百年の 栄華を誇る 北ノ京」

「北陸七国志 三(北国全太平記)」
「北陸七国志 三(北国全太平記)」
年月日未詳「北陸七国志 三(北国全太平記)」
山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00328
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 「北陸七国志」は江戸時代中期の軍記物作家である馬場信意による作品です。
 朝倉氏の9代朝倉貞景の代から関ヶ原の戦いの頃までの北陸地方における戦いを中心に描いています。
 紹介している部分は室町幕府最後の将軍足利義昭が一乗谷に滞在していた際に開かれた宴の様子です。1568年(永禄11)の春、朝倉義景は義昭を南陽寺の庭園に招いてもてなし、義景や義昭らが和歌を詠んでいます。
 ちなみに、この宴では朝倉氏の家臣である真柄直隆と子の真柄隆基が、大太刀(太郎太刀と次郎太刀)を振り回したり巨大な石を空中に放り投げたりしてその豪傑ぶりを披露しています。

北ノ庄城「鬼柴田の安堵状、とくと見よ!」

「(柴田勝家安堵状)」
1575年(天正3)10月5日「(柴田勝家安堵状)」
山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00004
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 柴田勝家は安土桃山時代の武将であり、初めは織田信長の弟である織田信行に仕えていましたが、後に信長の家臣となりました。
 その後、多くの戦功をあげ、信長の重臣として勢威を保ち、1575年(天正3)に信長から北陸経営を任され、越前に入りました。 83年(天正11)の賤ケ岳の戦いに敗れた後、妻お市の方と北ノ庄城で自刃しました。
 資料は劔神社(越前町)に宛てた安堵状です。安堵状とは、中世から近世において所領や所職の確認(安堵)を行う際に発給された証文のことです。
 勝家は劔神社の所領を以前のように所有することを保証しており、勝家の花押(署名の一種)が添えられています。

三名槍の一本「御手杵」

「結城御代記」
1852年(嘉永5)「結城御代記」
松平文庫(当館保管) A0143-02237
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 『結城御代記』は結城家の歴史書の一つです。資料は伯爵松平家(松平大和守家)に秘蔵されていたものを1913年(大正2)6月に写したものです。
 紹介しているのは天下三名槍の一つ「御手杵」の伝来を記している部分です。
 御手杵は結城晴朝が所持していましたが、晴朝が結城秀康を養子に迎えて家督を譲ると秀康に受け継がれました。秀康の死後は松平直基に譲られ、以後は直基の家に受け継がれていきました。
 資料中に登場する松平斉省は12代将軍徳川家慶の弟で、川越藩主松平斉典の養子となり、松平大和守家を継ぐとともに、御手杵を受け継ぎました。

小烏丸とともに出陣

「保元平治闘図会(巻之六-八)」
1801年(享和1)9月「保元平治闘図会(巻之六-八)」
吉川充雄家 (当館蔵) C0037-00636
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 『保元平治闘図会』は江戸中・後期の読本作家である秋里籬島による作品です。
 『保元物語』や『平治物語』といった軍記物語を図会形式にして、保元の乱と平治の乱を描いています。
 紹介しているのは平治の乱における戦いの一つである待賢門の戦いを描いている部分です。待賢門とは平安京の大内裏外郭十二門の一つで、東側に面する南から二つ目の門、中御門とも呼ばれます。
 1159年(平治元)12月26日、待賢門内に陣取った源義平の軍と平重盛の軍が戦いました。重盛は義平に敗れて敗走しますが、直後の六波羅の戦いで源義朝の軍を平清盛の軍が打ち破り、形勢は平氏側に傾きました。

特権を安堵しましょう

「木村常陸介安堵状(蝋燭・蝋商売諸事跡目ニ付)」
12月5日「木村常陸介安堵状(蝋燭・蝋商売諸事跡目ニ付)」
内田吉左衛門家文書(当館蔵) X0025-00009
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 木村常陸介は豊臣(羽柴)秀吉に仕えました。名は重茲、定光など諸説あります。
 資料は常陸介が岩本村(越前市)の野辺四郎右衛門に対し、発給した安堵状です。蝋燭と蝋の商売の跡目を相続することを保証しています。
 野辺四郎右衛門の家は、古くから越前における蝋燭の販売に関する特権を有しており、常陸介もその特権を認めています。
 また、冒頭の尚々書(追而書、本文を書き終わった後で改めて書き足した文章)では、野辺家の一族である久蔵を別に置くことを承認し、諸役を免除しています。

丹羽長秀ってどんなお方?

「若狭守護代記(1-6、貞享4年の記事まで)」
年月日未詳「若狭守護代記(1-6、貞享4年の記事まで)」
桜井市兵衛家 文書(当館蔵) N0055-00905
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 資料は源頼朝の時代から徳川家宣(綱豊)の時代における、若狭国の守護代の姓名を列記し、その略歴を記したものです。
 紹介しているのは、丹羽長秀について書かれている部分です。長秀は織田信長に仕え、近江佐和山城(滋賀県)の城主となりました。信長の死後、豊臣(羽柴)秀吉とともに明智光秀を討伐し、清洲会議では秀吉を支持しました。賤ケ岳の戦いでも秀吉に従い、勝家の滅亡後は越前と若狭、加賀の半分を領有しました。
 秀吉が「丹羽」「柴田」から一文字ずつとって「羽柴」姓としたことからもわかる通り、秀吉と長秀の関係は非常に深かったことで知られています。

安波賀春日神社と小狐丸

「和田八幡宮修繕寄付申出書(付、安波賀春日社吉田運吉小狐丸ニ関スル書)」
「和田八幡宮修繕寄付申出書(付、安波賀春日社吉田運吉小狐丸ニ関スル書)」
1891年(明治24)12月
「和田八幡宮修繕寄付申出書(付、安波賀春日社吉田運吉小狐丸ニ関スル書)」
松平文庫(当館保管) A0143-00708
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 資料は和田八幡宮(福井市)の修繕寄付申出書に付属していたものです。
 これによれば、宝刀「小狐丸」は安波賀春日神社(福井市)の神主である吉田常吉の家に伝来していたもので、九条殿(九条道孝)から松平正二位(松平春嶽)に要望があり、正二位の仲介で九条殿へ献納したとあります。この時、九条殿から常吉に端物料として金100円、肴料として金5000疋が贈られています。
 この時贈られた金は、安波賀村の吉川九左衛門の依頼で全額貸し出されており、この後得られた利潤を春日神社の修繕費の補充にすることを願い出ています。

小狐丸は福井にあった?

「越前世譜 吉邦様御代 八(34)」
「越前世譜 吉邦様御代 八(34)」
1720年(享保5)~1721年(享保6)「越前世譜 吉邦様御代 八(34)」
松平文庫(当館保管) A0143-01832
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 資料は松平吉邦の時代の出来事を記録したものです。
 紹介しているのは、資料中に「小狐丸太刀」が登場している部分です。徳川吉宗の時代、小狐丸が越前にあるという風聞を耳にした幕府は1720年(享保5)2月、福井藩に対して調査を命じています。その結果、同年3月に安波賀春日神社において「小狐丸影」という太刀がみつかりました。しかし、これが本物の小狐丸であったのかどうかは定かではありません。
 なお、松平春嶽(慶永)の『眞雪草紙』によれば、当時の幕府の寺社奉行からたとえ本物の小狐丸であっても、「小狐丸影」とするように密命があったといいます。

装剣奇賞

「装剣奇賞」
1781年(天明1)5月「装剣奇賞(序例、総論、雑述)」
久保文苗家文書(当館蔵) C0064-01261
年月日未詳「装剣奇賞 参(諸工名譜其一) 」
久保文苗家文書(当館蔵) C0064-01262
 江戸時代の刀剣装飾研究家稲葉通竜新右衛門による刀装具や根付といった細密工芸に関する日本初の本格的な手引書です。
 当時の金工技法について垣間見ることができます。

続新刀銘尽

「続新刀銘尽」
年月日未詳「続新刀銘尽 巻之八(南海道六箇国、国不知)」
久保文苗家文書(当館蔵) C0064-01263
年月日未詳「続新刀銘尽 巻之五-巻之六(諸国新刀目利之書 山陽道八箇国、北陸道七箇国)」
久保文苗家文書(当館蔵) C0064-01264
 江戸時代の軍学者神田白竜子が、1721年(享保6)に出版した「新刀銘尽」の続編として35年(享保20)に出版したものです。
 刀工のプロフィールの他、刀の押形を掲載し、その作風にまで言及しています。

万宝鄙事記

「万宝鄙事記 巻三・四(刀脇指、収穫、花香火、紙細工、染物)」
「万宝鄙事記 巻三・四(刀脇指、収穫、花香火、紙細工、染物)」
「万宝鄙事記 巻三・四(刀脇指、収穫、花香火、紙細工、染物)」
「万宝鄙事記 巻三・四(刀脇指、収穫、花香火、紙細工、染物)」
1705年(宝永2)「万宝鄙事記 巻三・四(刀脇指、収穫、花香火、紙細工、染物)」
桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00897
デジタルアーカイブはこちら
「万宝鄙事記」とは、江戸時代の学者である貝原益軒による家庭用百科事典です。
 巻三では、家庭でもできる刀剣の手入れ方法について記述されています。

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