Fukui Prefectural Archives

月替展示

Monthly Exhibition

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幕末明治福井150年博

くずし字マスターへの道-明治編-

 くずし字から楷書へ。その転換点のひとつが、明治時代です。転換といっても、ひと晩でくずし字が書かれなくなってしまったわけではありません。明治時代には明治時代のくずし字がありました。
 展示では、明治時代の教科書や書簡をとおして、江戸時代以前とはまた一味違う、明治時代に書かれたくずし字を紹介します。

会 期

2018年(平成30)4月14日(金)~6月27日(水) ※終了しました

会 場

福井県文書館閲覧室

展示資料

お手本が、これ!
「御手本(手習)」

1874年(明治7) 「御手本(手習)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00733

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「御手本(手習)」

1874年(明治7)4月 「御手本(手習)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00734

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「文章手本(手習)」

1874年(明治7)2月 「文章手本(手習)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00735

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 手習いのお手本(読み書きそろばんの教科書)です。3点とも、同じ「明治七」年(1874)に書かれたお手本です。が、全部楷書(N0055-00734、中)、かと思えばくずし字・楷書・楷書(00733、一番上)、かと思えば全部くずし字(00735、一番下)と、楷書とくずし字との割合は三者三様、バラバラです。

東西の「名所図会」
「(韓国総監を辞して帰国した伊藤公爵を招いた政友会の宴会での挨拶文)」
「(韓国総監を辞して帰国した伊藤公爵を招いた政友会の宴会での挨拶文)」
「(韓国総監を辞して帰国した伊藤公爵を招いた政友会の宴会での挨拶文)」
「(韓国総監を辞して帰国した伊藤公爵を招いた政友会の宴会での挨拶文)」

1909年(明治42)6月19日
 「(韓国総監を辞して帰国した伊藤公爵を招いた政友会の宴会での挨拶文)」

池内啓収集(杉田家旧蔵)文書(当館蔵) A0174-00166

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  1909年(明治42)6月19日、この日は、立憲政友会の祝賀会がありました。主賓は、枢密院議長に就任した前総裁の伊藤博文です。祝賀会では幹事長の杉田定一が、一同を代表して挨拶に立っています。もしかするとこれは、その時手に持っていた原稿だったのかも…。

借りた本じゃないぞっ
「(延享時代貸本返却催足ニ付覚書)」

1892年(明治25)11月20日  「(延享時代貸本返却催足ニ付覚書)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00350

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 1892年(明治25)、三方郡田井村世久見(現在の若狭町世久見)の桜井兼吉は、村内の立徳寺の住職から貸した本を返すよう催促されました。 実はさかのぼること5年、1887年にも兼吉は住職から同じ本を返すよう催促されていました。住職によると、その本というのは…。
 なんと、さらにさかのぼること142年、1745年(延享2)に貸した本だといいます。 「延享年間(1744~1748)に立徳寺の番僧(当番制で寺院を管理する僧春朝(潮)坊が、立徳寺の本を担保に小浜町の食見(しきみ)屋弥兵衛という人物から金1両を借用し、その返済を桜井家の当主市兵衛が肩がわりした。」兼吉が土蔵に入って調べていると、書物箱の引き出しの中から、経緯を書きとめた文書が出てきました。
 142年の間にどこでどうなったのか、どうも立徳寺の勘違いだったようです。 (桜井市兵衛家文書の中には、この兼吉が引き出しの中から見つけた経緯を書きとめた文書もあります(N0055-00341, 00343, 00345, 00347, 00349)。)

こどもと思ってなめるなよっ
「(世久見浦桐畑境ニ付書置)」

1892年(明治25)11月20日
「(世久見浦桐畑境ニ付書置)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00411

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 1875年(明治8)には代がわりのどさくさにまぎれて、その翌年には地租改正のどさくさにまぎれて、桜井家の土地が掠め取られるという「残念ノ事故」がありました。
 しかし、桜井家の若き当主、兼吉は見ていました。関係者までばっちり。

番外編 くずし字マスターへの道-江戸編-
「春潮房しきミヤ借り金口入済口之覚(書物を質に借金)」

1747年(延享4)9月16日
 「春潮房しきミヤ借り金口入済口之覚(書物を質に借金)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00343

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 これは兼吉が引き出しの中から見つけた文書、その中の一点です。 これを見て経緯がわかったということは、兼吉も選ばれし者の一人、 くずし字マスターだった…のではなく、明治時代には、あの人もこの人も、みんなくずし字マスターでした。
 あなたの、ほんの数代前 のご先祖さまも…そう、くずし字マスターだったのです!

問題の本32冊の一覧
「覚(古書籍32品、字彙、儒門事観など)」
「覚(古書籍32品、字彙、儒門事観など)」

年未詳 「覚(古書籍32品、字彙、儒門事観など)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00349

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てふてふーてふてふー
「文部省検定済新編教育唱歌集第1集」

1898年(明治31)7月 「文部省検定済新編教育唱歌集第1集」

勝見宗左衛門家文書(当館蔵) B0037-00719

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 唱歌(現在の音楽)の教科書です。この「蝶々」は、1947年(昭和22)に詞が改変され、さらに曲も短縮されて現在の「蝶(ちょう)々(ちょう)」になりました。 「蝶々」以外にも「見渡せば」(現在の「むすんでひらいて」)や「蛍」(現在の「蛍の光」)など、いくつかの唱歌は、形を変えて今に歌い継がれています。

鱸・鯵・鯖・鰹・鮪・鱚…
「水産物捕獲時季調書」

1904年(明治37) 「水産物捕獲時季調書」

歴史的公文書(当館蔵) 49690

 福井県内務部から沿海七郡(坂井・丹生・南条・敦賀・三方・遠敷・大飯)への「重要」水産物の照会です。七郡は、郡内の各漁業組合が調査にあたり、結果を取りまとめて郡長に提出しています。 明治時代、書類はもちろん手書きです。
 調査内容は51(すずき、あじ、さば、かつお、 しび、きす、あご、いな、ぼら、ぶり、はまち、ぶりご、 しいら、まいわし、うるめいわし、たら、あら、おしうお、 まだい、こだい、ぐち、ほうぼう、かながしら、さより、 こうなご、さけ、ます、ひらめ、かれい、ふか、ふぐ、 たなご、かます、はも、まいか、するめいか、あおりいか、 みずだこ、まだこ、いいだこ、あわび、さざえ、なまこ、 うに、まがに、ずわいがに、せいこがに、えび、わかめ、 あらめ、てんぐさ)の基本項目と、その他地域で重要な水産物(各漁業組合が手書きで追加)です。

投資しましょう!開墾しましょう!
「華族経済ニ関スル見込書」

1879年(明治12)8月13日 「華族経済ニ関スル見込書」

松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-00696

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 渡辺洪基(学習院次長)が岩倉具視(華族会館館長)に提出した華族の財産を国家の経済を発展させるために役だてる方策案です。 松平家でも、執事が表紙をつけて綴り、保管していました。
 ちなみに「茂昭」という丸印も押されています。茂昭の確認印でしょうか?

童蒙 末那比楚女
「学童必携 童蒙学初」

1872年(明治5) 「学童必携 童蒙学初」

吉川充雄家文書(当館蔵) C0037-00718

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 初学者むけの教科書です。寺子屋などでは、手習いの師匠が寺子のために手習いのお手本(教科書)を手づくりしていました。 これも、手づくりの教科書です。ただ…手づくりといっても既製の教科書、しかも緒言から奥付まで一冊まるごと手写ししています。

ナンと金糸雀
「小学読本」

1874年(明治7)5月 「小学読本」

坪田仁兵衛家文書(当館寄託) C0005-01258

 ヨーロッパのとある国のお話です。アリスの家で一緒に暮らすことになった猫(ナン〈名前〉)と鳥((金糸雀(きんしじゃく))〈カナリア〉)。同じうつわで餌を食べ、ふれ合っても気にせず、お互いになれはじめたと思った矢先、突然、ナンが鳥に飛びかかり、口をあけて…パクリ。
 そのまま鳥をくわえて部屋の中を駆けまわるナン。どうしたことかとあわてるアリス。ふと見ると、よその猫が部屋に入りこみ、鳥を狙っていました。 アリスがその猫を追いはらう と、ナンは鳥を放し、放された 鳥も普段どおりのようす。
 猫と鳥の種を超えた友情の物語です。

凡地球上の人種ハ、五に分れたり。
「明治七年八月改正小学読本 巻一 (武生幸町千秋慎一翻刻、小浜清滝町松本利兵衛発行)」

1875年(明治8)2月2日
「明治七年八月改正小学読本巻一(武生幸町千秋慎一翻刻、小浜清滝町松本利兵衛発行)」

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-01004

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 「凡地球上の人種ハ、五に分れたり。」 これは、明治時代の小学校で、はじめに読み習う文章です。 この『小学読本』自体は、アメリカの教科書が原典で、その内容を取捨選択して採用、翻訳して掲載しています。

雨宮勘解由伝説
「訂正新編帝国読本巻五(高等科、教科書)」

1899年(明治32)1月19日
「訂正新編帝国読本巻五(高等科、教科書)」

橋本伝右衛門家文書(当館蔵) A0163-00117

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  1186年(文治2)、甲斐国(現在の山梨県)、雨宮勘解由(あめみやかげゆ)は道ばたで見なれない蔓植物を見つけました。勘解由はその植物が立派な実をつけると考え、周囲にいた人に笑われながらも信じて疑わず、自宅に持ちかえって畑に植えかえ、心を込めて育てます。  育てること5年…その植物は、丸くて甘い房状の実をみのらせました。 これは甲州ブドウの発見にまつわる伝説です(勘解由伝説の他にもう一つ、行基伝説もあります)。

行基伝説:718年(養老2)、甲斐国で修行していた行基の夢にブドウを手にした薬師如来が出現しました。行基はその薬師如来の像を彫ってその地に安置し(柏尾山大善寺〈現在の山梨県甲州市勝沼町に所在〉)、近隣の住民に法薬としてブドウの栽培を伝授したといいます。

こちら大甸子
「(2月5日出の手紙、3月14日拝見、軍事郵便)」

1905年(明治38)3月26日
「(2月5日出の手紙、3月14日拝見、軍事郵便)」

加藤竹雄家文書文書(当館蔵) A0052-01215

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 日露戦争(1904年(明治37)2月~1905年9月)の軍事郵便です。
 差出人は甥、清国大甸子(だいでんし、現在の中国東北部、遼寧省鉄嶺市鉄嶺県)の岩堀正、受取人は叔父、福井県吉田郡二日市(現在の福井市二日市)の加藤源太郎です。
 この手紙で、正は部隊の動きや戦闘の経過、現地のようすなどを伝えています。 しかし、話題はそこから羽二重の不振による福井の経済への影響や「実家一件」(内容は未詳)へと移り変わってゆき、非日常と日常とが織りまざった内容になっています。
 これ以前にも源太郎が正に「福井新聞」を送るなどしており、二人は清国と二日市との間でやりとりを続けていたようです。

明治のおわり
「渡世日記 新第1号」

1912年(明治45/大正1)1月1日~1913年(大正2)8月5日
「渡世日記 新第1号」

飯田広助家文書(当館寄託) G0024-00427

 今立郡上池田村東俣(現在の池田町東俣)の飯田広助という人物の日記です(期間は1893年(明治26)から1918年(大正7)までの36年間)。
 1912年7月30日(火)が明治時代最後の日、31日からは大正時代がはじまります。

御ノ字ヲ省ク事
「(康荘家譜)」
「(康荘家譜)」

1892年(明治25)1月1日~12月31日 「(康荘家譜)」
1892年(明治25)1月1日~12月26日 「(康荘家譜)」

松平文庫(福井県立図書館保管)

 最後の福井藩主茂昭(もちあき)の子康荘(やすたか)代の松平家の「家譜」(松平家の公式記録)です。 松平家では1670年(寛文10)以来、記録の編纂を家(藩)の事業として、歴史を書き継いできました。時代が変わり、藩主家から侯爵家になりましたが、記録の編纂はつづいていきます。
 ただ、時代が変われば…筆記具も筆からボールペンに、鉛筆に、変わっています。 また、2点のうち1点には、藩主家時代ではとても考えられない「御ノ字ヲ省ク事」という注意書きも…。

タペストリー紹介

鉄道競争すごろく
「福井県実業家案内すご録」

1904年(明治37)1月1日 「福井県実業家案内すご録」

坪田仁兵衛家(当館寄託) C0005-01237

掲載されている商店・会社などはこちら

 福井県下の商店や会社203か所を絵入りで紹介したすごろくです。この時期、県下は嶺北地方を中心に輸出向け羽二重織物の全国有数の産地であり、 羽二重は生糸・綿糸につぐ日本の外貨獲得商品でした。

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