Fukui Prefectural Archives

月替展示

Monthly Exhibition

概 要展示内容LINK

文字を運ぶ -記録の素材と複製-

 人々は時代や目的に応じて、紙や木などの様々な素材に、様々な方法で記録を残してきました。今回は、6月9日の「国際アーカイブズの日」にちなみ、様々な素材にかかれた原本資料や、様々な方法で作られた複製物を展示し、それぞれの特徴、保存法などを紹介します。

(「国際アーカイブズの日」…文書や記録を保存し、その利用を図ることの大切さを考える日。1948年(昭和23)6月9日、国際公文書館会議(ICA)の発足にちなんでいます。)

会 期

平成29年5月26日(金)~平成29年7月12日(水) ※終了しました。

会 場

福井県文書館閲覧室

ケース1 素材

和紙の資料
劒大明神灯明料注文

1497年(明応6)「劒大明神灯明料注文」

山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00034

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 和紙は楮や雁皮、三椏などの繊維を原料にしてつくられた紙で、保存性に優れています。「劒大明神灯明料注文」は、500年以上前に作成された、文書館にある最も古い和紙の資料です。劒神社(越前町織田)で灯明に使う油代の管理権の譲渡について書かれています。劒神社の坊院養躰院の隆尊という人物から真禅院に権利が譲渡されたことや、朝倉貞景(天澤様)が裏判(署名・花押)を加えてこのことを認めたことがわかります。このように、権利を証明する資料は古くから大切にされ、この資料のように巻子本に仕立てられて伝わったものもあります。虫食いは少なく、保存状態は良好で、適切に管理されてきたことがうかがえます。

酸性紙から中性紙へ
(水稲栽培試験成績、雑草防除、水稲新品種育成)

1958年(昭和33)「(水稲栽培試験成績、雑草防除、水稲新品種育成)」

関東東山農業試験場 40006328

地域標準技術体系養蚕

1969年(昭和44)「地域標準技術体系養蚕」

農林水産技術会議事務局 40002818

 日本では20世紀半ば頃に紙の寿命が問題になりはじめました。紙資料が半世紀もたたないうちに急速に劣化しはじめたのです。その大きな原因は「酸性紙」であることがわかりました。酸性紙とは、インクのにじみ止め(サイズ剤)を定着させるため、硫酸アルミニウムを添加した洋紙(パルプを原料とした紙)のことです。硫酸アルミニウムは紙や大気中の水分と反応し、紙を構成する繊維(セルロース)を徐々に傷つけていきます。そこで、紙の傷みの対応策として、インクのにじみ止め防止に炭酸カルシウムなどの中性のサイズ剤を使った「中性紙」が開発されました。中性紙の寿命は、酸性紙の50~100年に比べて4~6倍あるとされています。

棟札
覚(八幡宮社建立仕ニ付棟札)

1739年(元文4)「覚(八幡宮社建立仕ニ付棟札)」

飯田忠光家文書(当館蔵) G0013-00781

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 棟札とは、建築物の造営や修復の際に、その建物の由緒や建築関係者、建築年月日などを墨書した木製の札のことです。建物の屋根裏の棟木に打ちつけられたり、屋根裏に納められたりしました。資料「覚」は1671年(寛文11)に建てられた池田町八幡宮社を1739年(元文4)に修復した時の棟札(杉材)です。

布に記された漢詩
漢詩

1908年(明治41)「漢詩」

池内啓収集(杉田家旧蔵)文書(当館蔵) A0174

 漢詩人で政治家であった結城琢(蓄堂)が、福井県出身の政治家で、当時衆議院議長であった杉田定一に贈ったものです。定一が官邸で催した酒宴の席で、蓄堂が即興で詠んだ漢詩が書かれています。形式は七言律詩で、これを詠んだ日が天長節(天皇の誕生日)の前日ということで、天皇を敬慕する内容となっています。

付札木簡
付札木簡

17世紀半ば~後半、福井城下「城代屋敷」から出土

福井県教育庁埋蔵文化財調査センター提供

 木簡とは文字などを墨書した木の札のことです。紙の生産量が少なかった7~9世紀に多く用いられました。官人の記録用に使った文書木簡と、物品にくくりつけて内容を示す付札木簡に分類されます。資料は福井城下の「城代屋敷」と呼ばれる屋敷地で出土した17世紀の付札木簡です。切り込みの部分を紐でゆわえ、これを荷物に結んで使いました。

硯

1819年(文政2)福井城跡

福井県教育庁埋蔵文化財調査センター提供

 福井城跡の、近代に掘られた穴から出土しました。裏面に「文政二己年(1819年)山田代」と刻まれています。

鬼瓦
鬼瓦

1641年(寛永18)福井城下「長谷川宗右衛門」屋敷跡から出土

福井県教育庁埋蔵文化財調査センター提供

 福井城跡の、寛文の大火の焼土や瓦礫を片付けた穴から出土した桐文鬼瓦です。「寛永拾八年」(1641年)と、葺き替えの年次が刻まれています。土が柔らかい状態で文字を記し、その後焼成したと思われます。

迷子札
迷子札

18世紀後半~19世紀、福井城下旧松原天草町から出土

福井県教育庁埋蔵文化財調査センター提供

 迷子札とは、迷子になっても身元がわかるように幼い子どもに持たせていた、住所氏名などが書かれた札のことです。資料は旧松原天草町から出土した金属製の迷子札で、片面に住所と親子の名前、「天草町 柳下勘七倅 久之丞」の文字が彫られています。天草町は現在の福井市松本1丁目付近で柳下勘七は福井藩士でした。反対側には干支と思われる亥と松の木の絵が彫られています。
 このように、片面に「住所(地名)+親の氏名+子の名前」、反対の面に干支の絵を彫るのが一般的でした。この金属製の小判型迷子札は、江戸時代から近代を通じて定番商品になっていたと考えられています。

初期の鉛筆で書かれた書簡
(粟崎両家献金一件、大蔵省官員巡回、県庁板敷き、椅子・ 高案・ガラス障子、洋装導入等書簡、村田氏寿副呈)

1872年(明治5)「(粟崎両家献金一件、大蔵省官員巡回、県庁板敷き、椅子・ 高案・ガラス障子、洋装導入等書簡、村田氏寿副呈)」

松平文庫(福井県図書館保管) A0143-00863

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 日本の筆記具は長らく筆と墨でしたが、明治維新後、鉛筆が使われるようになりました。当初は外国からの輸入品だったため、ごく一部の人が使っていたにすぎません。資料は1872年(明治5)4月3日付の、足羽県参事村田氏寿と権参事千本久信から、東京松平家事務所の家扶3名に宛てた、当時では珍しい、西洋紙の両面に鉛筆で書かれた書簡です。大蔵省官員の査察にあわせて、かつての上級武士の屋敷を利用した県庁の洋風化を行ったことなどが書かれており、急速に近代化が進められていたことがわかります。73年に、海外で鉛筆の製造技術を学んだ伝習生が帰国し、国内で作られるようになり、一般に広がっていきました。

ケース2 複製

木版と木版画
木版、木版画

年未詳「木版、木版画」

福井県立歴史博物館蔵

(京都御所周辺屋敷絵図)

年未詳「(京都御所周辺屋敷絵図)」

矢尾真雄家文書(当館蔵) C0065-00700

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 木版とは、木の板に文字や絵を彫りつけて作った印刷用の版のことです。江戸時代初期の印刷には木製活字によるものがありましたが、書物が民衆に広まるとともに手軽な木版印刷に移行していきました。資料は、御煎茶のチラシの木版と、木版で刷られた京都御所周辺の屋敷絵図です。

『平家物語の写本』
『平家物語 巻第七』(写本)

1677年(延宝5)『平家物語 巻第七』(写本)

桜井市兵衛家文書(当館蔵) N0055-00785

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 写本とは、手書きで複製された本や文書のことです。木版印刷や活版印刷術が普及する以前、書物は多く写本によって広まりました。出版時代ともいわれる江戸時代になると、木版印刷による商業出版が本格化しますが、引続き写本も作られました。この『平家物語』は挿し絵もかき写されています。

ガラス乾板と現像写真
(涅槃講式残簡写真)

年未詳「(涅槃講式残簡写真)」

山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-01547

(ガラス文書)

年未詳「(ガラス文書)」

山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00859

 ガラス乾板は写真乳剤を無色透明のガラス板に塗布したものです。カメラにセットして撮影した後、乾板をもとに写真に焼き付けました。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使用されていましたが、衝撃や光に弱いという性質から使われなくなりました。資料は劒神社の「涅槃講式残簡」のガラス乾板と現像された写真です。「涅槃講式」は、涅槃会(釈迦が入滅した日に、釈迦を追慕して行われる法会)の作法をまとめたものです。

青焼きの設計図
福井市庁舎及公会堂設計図東面図

1933年(昭和8)「福井市庁舎及公会堂設計図東面図」

辻岡通文書(当館蔵) A0199-00001

 ジアゾ化合物を塗布した用紙を感光させ、湿式の現像液を使うものが、ジアゾコピーといわれる「青焼き」で、白地に青で線や文字が謄写されます。昭和30年代に普及していき、大判の図面などで多用されています。資料は1933年(昭和8)の陸軍特別大演習の記念事業として発案された福井市役所建築の際の設計図です。

こんにゃく版で作られた資料
上庄農会規約案(こんにゃく版)

年未詳「上庄農会規約案(こんにゃく版)」

山田三郎兵衛家文書(当館蔵) I0011-01012

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 こんにゃく版は、ゼラチンとグリセリンを平皿に流し込んでゼリー状に固めたものに、塩基性染料で書いた原稿を転写して版を作り、これに湿り気を与えた紙を押し当てて印刷します。こんにゃく版は明治10年代から大正にかけて多く利用され、その使用は昭和に入ってからも一部みられます。

謄写版(ガリ版)で印刷した作文
ヤスリ、鉄筆

年未詳「ヤスリ、鉄筆」

福井県立歴史博物館蔵

わらべ 第1号(小学校6年生綴方)

年未詳「わらべ 第1号(小学校6年生綴方)」

増田公輔家文書(当館蔵) J0116-00210

 謄写版は、蝋紙を金属製のヤスリの上に置いて、鉄筆で文字などを書いて蝋を掻き落とし、それを布を張った枠に張り、その上にインクをつけたローラーを転がし、蝋を落とした部分からインクをにじみ出させて印刷します。ヤスリと鉄筆を使って製版するときのガリガリという音から、「ガリ版」ともいいます。小型のものは手で持ち運ぶこともでき、電気も使わない手軽な印刷装置だったため、明治から昭和50年代の初めまで軍や役所、商店や学校などで広く使われました。ガリ版は手書きのため独特な字体を使える名人芸の人が存在していて、ガリ版文化などと呼ばれました。資料はヤスリと鉄筆と蝋紙、謄写版で印刷した小学生の作文です。

活字とハガキの活版
ハガキの活版

2001年(平成13)「ハガキの活版」

相和印刷提供

 活字とは、活版印刷に用いられる柱状の字型のことです。頂面に1字ずつ凸状に文字を刻んであります。古くは陶土、木材などを材料としましたが、1450年頃グーテンベルクが鉛合金の活字を考案し、実用化しました。これを組み並べて活版を作って印刷します。資料は鉛合金の活字で組んだハガキの活版です。

敦賀県の布令書(木版と活版)
敦賀県布令第55号

1873年(明治6)「敦賀県布令第55号」

福井県立図書館蔵

 明治6年に敦賀県から出された布令です。右頁は木版で印刷されたもので、証券に印紙をはることを徹底することを求めています。左頁は活版で印刷されたもので、旧足羽県の小学校の授業料を廃止することを指示しています。この頃の布令は、木版と活版が混在しています。

ガラスケース内展示

「木製の高札」
定(五榜の掲示第三札)

1868年(明治1)「定(五榜の掲示第三札)」

飯田忠光家文書(当館蔵) G0013-00784

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 高札とは法令・禁令などを人々に周知徹底させるために板札に墨書し、町辻、橋詰、街道の分岐点、舟渡場、関所など人目につきやすい場所に掲示したもののことです。奈良時代末期からみられ、江戸時代に全盛をきわめました。資料「定(五榜の掲示第三札)」は、1868 年(明治元)に池田町西角間村(現、今立郡池田町西角間)で使用されていた高札です。明治新政府が、五箇条の御誓文が出された翌日、全国の民衆に向けて五枚の高札をかかげさせたものの一つで、キリスト教の禁止を記しています。高札は維持管理などの費用がかさむことや、近代でよくみられるようになった長大な法令文を記すのに不適切であることが問題とされ、73年(明治6)には廃止されました。

「寒山寺石碑の拓本」
寒山寺楓橋夜泊詩(拓本)

年未詳「寒山寺楓橋夜泊詩(拓本)」

加藤竹雄家文書(当館蔵) A0052-02073

 拓本とは、石碑や金属器などに紙をあて、墨を使って、そこに刻んである文字・模様を写し取ったものです。資料は寒山寺参詣の土産として購入された「寒山寺楓橋夜泊詩」の石碑の拓本です。寒山寺は中国江蘇省蘇州市にある臨済宗の仏教寺院です。寒山寺には、明代に「三絶」と呼ばれた蘇州の文人文徴明の筆になる「楓橋夜泊」の詩を刻んだ石碑があり、明・清代の人々はその拓本を購買しましたが、長い年月のため損耗してきたので清末に学者兪樾が彫り直しました。「寒山寺楓橋夜泊詩」の作者は中唐の詩人で政治家でもあった張継です。この詩は都落ちした旅人が、蘇州西郊の楓江にかけられた楓橋の辺りで船中に泊まった際、旅愁のために眠れぬまま寒山寺の鐘の音を聞いたという様子を詠っています。日本でも、教科書に載ったり、掛け軸になったりなど、様々な形で親しまれています。

パネル展示

パネル展示

室内の様子

ガリ版
複製本

ポスターとガイドペーパー