Fukui Prefectural Archives

松平文庫テーマ展40

Matsudaira Bunko Theme Exhibition 40

概 要展示内容LINK

「“異能”の軍学者井原番右衛門 -忍者・計略・まじない-」

 江戸時代、戦術や用兵などを研究する学問として軍学(兵学)が発達し、各藩にはそれを藩主や藩士に指南する軍学者がいました。
 井原番右衛門(1611~1686)は、江戸時代前期に福井藩に仕えた義経流の軍学者で、藩の軍制を整備し、歴代藩主から重用されました。また井原は、忍者の創設や新田塚整備のほか、福井城と城下を宗教的に守護する役割も担うなど、幅広い分野で活躍しています。
 本展示では、松平文庫に伝わる諸資料から、人とは異なる独特な能力(異能)を発揮した井原の人物像に迫ります。

会 期

2022年8月26日(金)~2022年10月26日(水) ※終了しました。

会 場

福井県文書館閲覧室

展示内容

(1)軍学師範として福井藩主に仕える
「諸師家由緒書」

年月日未詳「諸師家由緒書」
A0143-02036 松平文庫(当館保管)
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 義経流軍学者の井原番右衛門は、寛永20年(1643)福井藩主松平忠昌に知行300石で召し抱えられ、その後光通・昌親・綱昌・吉品と5代に仕えました。藩では「軍帳」の作成を主導し、武具支配役に就くなど軍制面で重要な役割を担っています。

(2)若き藩主光通との問答を記録
「大安公御略伝」

1842年(天保13)「大安公御略伝」
A0143-02150 松平文庫(当館保管)
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 15歳の光通は江戸に井原を呼び寄せて師弟の関係を結び、自身の行動の正否などを親しく尋ねました。本資料に引用される「無形臣問答書」は、井原がその時の様子を記録したもので、少年藩主の成長に及ぼした井原の影響力がうかがえます。

(3)10粒の大豆で障子を破るには?
「南越雑話 中」

1748年(寛延1)「南越雑話 中」
A0143-02067 松平文庫(当館保管)
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 井原はその後も光通の寵愛が非常に厚く、ある時戦法や勝敗について問われます。井原は一握りの大豆を投げても障子は破れないが、大豆十粒を紙に包んで投げれば破れるとやって見せ、まとまりのある軍とするには「主将の心」が重要と答えました。

(4)武器に関する豊かな知識・高い技術
「越藩史略 四」

1781年(天明1)「越藩史略 四」
A0143-01370 松平文庫(当館保管)
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 ある時、福井城二ノ丸の武具土蔵が焼失。京都から職人を大勢呼び寄せ、井原が指揮して鎧や刀、槍、弓矢、鉄炮などを製造させました。他藩の大名から製造依頼を受けるほど、井原には武器の知識や技術があり、後に武具支配役にも任じられました。

(5)松平家先祖・新田義貞の戦没地整備
「越藩貴耳録 地」

年月日未詳「越藩貴耳録 地」
A0143-01367 松平文庫(当館保管)
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 万治3年(1660)井原は光通の命で新田塚を整備します。新田義貞戦没の場所から出土した兜の詮議が行われたといい、後には井原がこれを鑑定したとの説につながります。武器や『太平記』に関する知識を持っていたことが下命の理由と思われます。

(6)福井城守護のため祈祷箱を納む
「真雪草紙」

年月日未詳「真雪草紙」
A0143-02632 松平文庫(当館保管)
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 寛文9年(1669)福井城は城下の大火で焼失。翌10年から始まる城の再建では、井原が鍬初の儀式に加わっています。またこの時、光通の命で、城の永世保存・子孫長久のため、井原が祈祷した箱が本丸多門櫓の四方が土壁の部屋に納められました。

(7)領内各地を巻き込んだ計略
「片聾記 上編」

年月日未詳「片聾記 上編」
A0143-01342 松平文庫(当館保管)
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 延宝2年(1674)光通死去の日の夜のこと。光通の蘇生を喜び叫ぶ声が領内各地で同時に沸き起こり、天地が震動しました。これは万民が光通に懐いていたようにみせる井原の計略だったといいます。どのような方法を用いたかは不明です。

(8)城の鬼門に白山の神をまつる
「丸山頂上白山勧請書面」

年月日未詳「丸山頂上白山勧請書面」
A0143-02631 松平文庫(当館保管)
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 延宝4年(1676)藩主昌親の命を受けた井原は、城の北東(鬼門)に位置する丸山の頂上に白山神を勧請しました(神を移して祭ること)。同7年には、ここに八角石や太刀を納めた井筒を設置し、「加持力」(まじないの力)で城下の鎮守安全を祈願しています。

(9)福井藩には忍者がいた!
「慶永公御代 藩士家禄人名記 四」

年月日未詳「慶永公御代 藩士家禄人名記 四」
A0143-01177 松平文庫(当館保管)
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 幕末の福井藩主・松平慶永(春嶽)の家臣団名簿。側物頭を務める小栗治右衛門の配下に忍之者10人、同下役2人がいたことが記されています。忍組とも呼ばれた忍之者は慶安2年(1649)に創設され、慶応2年(1866)まで存続しました。

(10)忍之者、江戸湾防衛のため出動!
「越前世譜 慶永様御代(16上)」

1853年(嘉永6)「越前世譜 慶永様御代(16上)」
A0143-01956 松平文庫(当館保管)
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 嘉永6年(1853)ペリー艦隊が江戸湾(東京湾)に進入したため、江戸から福井に出兵要請が出されます。この時派兵された中に、井原司馬助が率いる忍之者2人・同下役1人が含まれていました。また、忍之者は越前国内の海岸警備も担当しました。

(11)武器・道具リストに手裏剣は無し
「福井藩軍制諸役心得書」

年月日未詳「福井藩軍制諸役心得書」
A0143-02633 松平文庫(当館保管)
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 福井藩の軍制を定めた「軍帳」には、忍之者が携行すべき武器・道具類が列挙されています。武器は忍之者が「半弓」(短い弓)、同下役が「問矢の小筒」(小銃)で、道具類には打鍵(壁を登る道具)や手火箭、雨松明など忍者特有の道具も含まれていました。

(12)初代「忍之者預り」井原番右衛門
「諸役年表 十三」

年月日未詳「諸役年表 十三」
A0143-01129 松平文庫(当館保管)
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 福井藩で忍之者を創設したのは軍学者の井原番右衛門。貞享3年(1686)まで忍之者預りを務め、子の源兵衛と丞助、孫の源助も同役を任されています。井原は関東で「機敏之者」を選抜して忍之者にしたようですが、詳しい経緯はわかっていません。

井原がいた頃の福居城下絵図
「御城之図」

年月日未詳「御城之図」
A0143-21315 松平文庫(当館保管)
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 福井城下がまだ福居と呼ばれていた万治2年(1659)頃の絵図を、明治期に写したもの。この後、寛文9年(1669)の大火で天守や櫓など大部分が焼失しました。井原の屋敷は橋南にあり、近くの「井原番右衛門 与」「荒子」は忍之者の屋敷と考えられます。