Fukui Prefectural Archives

松平文庫テーマ展39

Matsudaira Bunko Theme Exhibition 39

概 要展示内容LINK

福井藩主松平錦之丞の元服
~錦之丞、慶永になる~

 去る4月1日をもって日本の成年年齢が20歳から18歳に引き下げられました。現在は年齢によって一律に成人として扱われるようになりますが、以前は「元服」によって個別に「成人」していきました。
 元服もまた、人生の通過儀礼として、天皇から公家、武家、そして庶民と広く行われながら、身分や時代によって変化していきました。
 展示では、松平文庫から天保9年(1838)に元服した福井藩主松平錦之丞(慶永、春嶽)を例に、福井藩主の元服に関連する資料を紹介します。

会 期

2022年4月16日(土)~2022年6月22日(水) ※終了しました。

会 場

福井県文書館閲覧室

展示内容

1 松平錦之丞、十一歳
「官次第」

1838年(天保9)4月19日「官次第」
松平文庫(当館保管)A0143-21514

 1838年(天保9)4月19日、御三卿田安家当主徳川斉匡の五男錦之丞、11歳。
 当時の錦之丞は、生家の田安家屋敷で暮らし、ゆくゆくは伊予国松山藩主松平勝善の養子になるはずでした(養子縁組は前年11月25日に決定済)。
 ところが、夏に福井藩主松平斉善(無嗣)が風邪を引いて体調を崩し、その後急変したことで、状況は一変しました。
 斉善が「亡くなる」それは即ち福井藩の断絶です。そこで急遽、錦之丞が養子になり、跡を継ぐことになったのです。

2錦之丞の元服
「越前世譜 慶永様御代(1下)」

1828年(文政11)9月~1838年(天保9)10月「越前世譜 慶永様御代(1下)」
松平文庫(当館保管)A0143-01941
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 元服の当日は熨斗目(小袖)・長袴を着用して六時(午前6字頃)供揃の五半時(午前九時頃)登城、登城後は松の廊下下の部屋へ。
 それから御奏者番と最後の予行演習をして将軍徳川家慶・家定父子の出御を待ちます…。

2(1)元服のお願い
「越前世譜 慶永様御代(1下)」

1828年(文政11)9月~1838年(天保9)10月「越前世譜 慶永様御代(1下)」
松平文庫(当館保管)A0143-01941
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 福井藩は11月22日に幕府へ錦之丞の元服と叙任を内願しました。その中では美作国津山藩主松平斉民(11歳で元服・叙任)が引き合いに出されていますが、錦之丞もお飾りではありません。家督のお礼は、名代を立てずに自分で言いたいと申し出ています(養子縁組の儀、養子のお礼、家督相続の儀は、名代を立てていました)。12月3日に内願が許可されると、同日中にも錦之丞は、御城坊主から手ほどきを受けながら、元服の儀式の練習をはじめています。

2(2)慶永の名付け親
「越前世譜 慶永様御代(1下)」

1828年(文政11)9月~1838年(天保9)10月「越前世譜 慶永様御代(1下)」
松平文庫(当館保管)A0143-01941
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 錦之丞の元服にあたり、幕府から藩に通称と諱の下の字を提出するよう指図がありました。諱の下の字は藩の儒者清田丹蔵が選定し、確認を依頼した幕府の儒者林述斎も異論はないとのことで、丹蔵案の「永」になりました。
 この名付け親ともいえる丹蔵は元服後の16日、侍読として慶永に『孟子』滕文公章句下を進講しています。初日はこの文章からです「公都子曰、外人皆称夫子好弁、敢問何也、孟子曰、予豈好弁哉、予不得已也、天下之生久矣、一治一乱当尭之…」

3 勝手に元服してしまった虎松
「越叟夜話」

1716年(享保1)「越叟夜話」
松平文庫(当館保管)A0143-02008
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 1614年(慶長19)に大坂の陣(冬)で初陣を飾った虎松。年が明けても今年も大坂の陣(夏)があると伝え聞くも、前回と違い前髪があるこどもは出陣できなくなるよう…虎松は幕府へ伺い立てをせず、勝手に前髪を落としてしまいました。
 家臣はこれはえらいお咎めを受けることになるぞ…と虎松を案じながら幕府へ報告しました。ところが将軍徳川秀忠は上機嫌で「似合っておるかな?」虎松は秀忠から官位に通称、そして一字を拝領し、忠昌になりました。

4 一字「慶」拝領
「御一字折紙(慶永)」

1838年(天保9)「御一字折紙(慶永)」
松平文庫(当館保管)A0143-20532

 元服の時に烏帽子親(仮親)や主君から諱の一字を拝領するという慣習があり、とくに主従関係においては、名誉とされました。福井藩主錦之丞は、将軍家慶から一字を拝領して諱に冠しています。慶永の「慶」です。

5 「従容不迫」の錦之丞
「奉答紀事 上」

1876年(明治9)「奉答紀事 上」
松平文庫(当館保管) A0143-01260
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 当時、御用人として錦之丞に近侍していた中根靱負によると、元服することになった錦之丞は、名代を立てずに自分でやりとげたいと毎日練習を重ねていたそうです。その練習の成果が出ました。
 予行演習では幕府の御奏者番が感歎するほど「従容不迫」(落ち着いた様子で慌てないこと)、当日の本番でも将軍家慶が錦之丞の英敏な様子に感心して褒めたたえ、江戸城中の評判になったといいます。

6 明治17年の元服
「家譜 二百四十七 茂昭公 従明治十七年一月到同年十二月」

1884年(明治17)1月~1884年(明治17)12月
「家譜 二百四十七 茂昭公 従明治十七年一月到同年十二月」
松平文庫(当館保管) A0150-01255
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 最後の福井藩主松平茂昭の子康荘は明治改元の前年、慶応3年(1867)生まれ。物心がつく頃には明治になっていました。
 そんな新時代の当主康荘ですが、明治17年(1884)に満16歳で叙任・元服しています。

展示の様子
展示の様子
展示の様子
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