Fukui Prefectural Archives

松平文庫テーマ展33

Matsudaira Bunko Theme Exhibition 33

概 要 展示内容 LINK

松平文庫でみる渋沢栄一 ~主に前半生を中心に~

 新紙幣への採用やNHK大河ドラマ「青天を衝け」で注目が集まる渋沢栄一(1840-1931)。「日本資本主義の父」と呼ばれ、多くの会社を起業・経営し、諸方面での社会貢献をしたことで知られています。豪農の長男に生まれた栄一でしたが、その前半生は一橋家家臣、幕臣、駿河(静岡)藩士、新政府役人と目まぐるしく立場を変えており、波乱万丈の生涯を送りました。
 本展示では、松平文庫の資料を手がかりに、渋沢栄一の前半生の足跡をたどります。

会 期

2021年4月17日(土)~6月23日(水) ※終了しました

会 場

福井県文書館閲覧室

展示内容

[1] 武蔵国榛沢郡血洗島村に生まれる
「岐蘇路安見絵図」

「岐蘇路安見絵図」 松平文庫 M291-16(当館保管)

 栄一は天保11年(1840)渋沢市郎右衛門と栄の長男に生まれた。血洗島村(埼玉県深谷市)は中山道と利根川の間に位置する安部家・岡部藩領の村で、陣屋がある岡部村から約1里(4㎞)の距離にある。近在は農村地帯ながら学問や武芸の盛んな地域だった。

[2] 藍玉販売で商才、国政への大望
「頭書増補訓蒙図彙大成 巻之二十」

「頭書増補訓蒙図彙大成 巻之二十」 松平文庫 M031-5(当館保管)

 渋沢家は藍葉で藍玉を作り、紺屋に販売する商売で財をなした。10代の栄一も信濃(長野県)や上野(群馬県)に1人で藍葉の買付に出かけるなど商才を発揮。一方で藩からの御用金上納の命に反発し、武士となって国政に参与する大望を抱くようになる。

[3] 攘夷派の志士として挙兵を計画
「風説書 二」

「風説書 二」 松平文庫 791(当館保管)

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 福井藩の情報収集録には文久3年(1863)攘夷派による赤城山挙兵計画が記録されている。首謀者・桃井可堂は栄一の大叔父・渋沢仁山の門人。栄一もこの時期、慷慨組を組織して、挙兵に連動する計画だった。しかし従兄の説得であえなく断念している。

[4] 一橋慶喜の家臣となる
「徳川慶喜公伝 巻三」

「徳川慶喜公伝 巻三」 松平文庫 M289-49(当館保管)

 元治元年(1864)栄一は幕府からの嫌疑を避けるため、従兄の渋沢喜作とともに故郷を離れて京都へゆく。そこで江戸で交流のあった一橋家用人・平岡円四郎の推挙を受け一橋家の家臣となった。この時、篤太夫と改名、農兵の養成や財政の再建に携わる。

[5] 後に慶喜の伝記を編纂、刊行
「徳川慶喜公伝 巻一」

「徳川慶喜公伝 巻一」 松平文庫 M289-49(当館保管)

 生涯、慶喜を尊敬し続けた栄一は、明治になってその復権活動に奔走。明治40年(1907)からは伝記編纂事業を開始する。史料を収集し、慶喜から直接聞き取りも行った。その成果は大正7年(1918)『徳川慶喜公伝』全8巻として結実している。

[6] 慶喜の将軍就任に伴い幕臣となる
「維新史料講演速記録」

「維新史料講演速記録」 松平文庫 M210-11 (当館保管)

 明治44年(1911)栄一は維新史料編纂会の講演で「一橋の慶喜が将軍職を継ぐといふことに相成りましたのは慶応二年で、私も一橋から召連れられて幕吏に相成りました」と述べる。その一方慶喜の将軍職就任に異議を唱えていたことも明かしている。

[7] 徳川昭武の随行でヨーロッパへ
「航西日記」

「航西日記」 松平文庫 M293-1(当館保管)

 慶応2年(1866)慶喜は弟昭武のパリ万博への派遣を決定し、栄一を随員に指名した。翌3年1月一行は横浜を出港、3月にパリ到着。幕府倒壊を受け、明治元年(1868)11月に帰国するまで、栄一らが記した旅日記が後に『航西日記』として公刊されている。

[8] 召し出されて新政府の役人に
「官員録」

「官員録」 松平文庫 M280-11(当館保管)

 帰国後の栄一は徳川家に従い駿府藩士(静岡藩)となるが、理財の才を見込まれ、明治2年(1869)11月民部省租税正に任じられる。藩での殖産興業の仕事に未練があったため、大隈重信に辞意を伝えたが、国家の諸制度確立の優先を理由に慰留された。

[9] 近代化に必要な諸制度を手がける
「官員録」

「官員録」 松平文庫 M280-11(当館保管)

 改正掛掛長を兼務した栄一は、度量衡の統一や税制改革、太陽暦の採用などを建白、明治3年(1870)9月末には次官に相当する大蔵少丞に任じられた。なお同4年の姓尸不称令発布まで、新政府の官員録には「位階+氏+姓+諱+苗字」が記載された。

[10] 官職を辞して民間へ
「太政官日誌」

「太政官日誌」 松平文庫 M071-6(当館保管)

 旧幕臣の栄一にとって新政府は居心地のよい場所ではなく、また国家財政に関する考え方で上司の大久保利通と衝突する。これが直接の引き金となって、明治6年(1873)5月4日に辞表を提出。14日に認められ、民間人・渋沢栄一の人生が始まる。

[11] 第一国立銀行の総監役となる
「明治英名百詠撰」

「明治英名百詠撰」 A0141-00207 (県立図書館蔵)

 明治初期に活躍した100人の肖像・略歴・歌を集成した本書では、栄一と関西経済界の重鎮・五代友厚が並んで収められる。大蔵省時代に第一国立銀行創設に関わった栄一は、官を辞してまもなく同行の総監役となる。なお本書の略歴には誤りが多い。

[12] 官営鉄道の民間払下げに尽力
「松平慶永同茂昭宛渋沢栄一書簡」

「松平慶永同茂昭宛渋沢栄一書簡」

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 栄一が松平慶永と茂昭に宛てた書簡。明治8年(1875)松平家はじめ有力華族が中心となり鉄道会社を結成(のち東京鉄道組合)、新橋横浜間の官営鉄道払下げを計画した。本資料は同9年払下げ契約締結に関するもので栄一は組合の総代理人を務めていた。

[13] 鉄道払下げから保険会社設立へ
「松平慶永同茂昭宛渋沢栄一書簡」

「松平慶永同茂昭宛渋沢栄一書簡」 松平文庫 964(当館保管)

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 明治10年(1877)栄一が松平家に宛てた鉄道組合臨時会議の出席依頼状。組合は華族からの出資金確保が困難となり同11年に解散。栄一は出資金を海上保険業に宛てることを提言し、翌12年に東京海上保険会社が創設された(現東京海上日動火災保険)。

栄一の西洋体験記「航西日記」をよむ
「航西日記」

「航西日記」 松平文庫 M293-1(当館保管)

 徳川昭武に随行した渋沢栄一と杉浦譲の共著による慶応3年(1867)1月11日~11月22日の日記。横浜からパリまでの旅行記、万博を含むパリ滞在記、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスの巡遊記など、様々な西洋体験を詳述している。

[一] 船中でのコーヒーとアイスクリーム
「航西日記」

「航西日記」 松平文庫 M293-1(当館保管)

 上海に向かう船中の食事。「食後カッフエーといふ豆を煎したる湯を出す。砂糖、牛乳を和して之を飲む。頗る胸中を爽にす」「糖もて製せし氷漿グラスヲクリーム食せしむ」(glace à la crème=アイスクリーム)。飲食における西洋初体験。

[二] パリで「養魚所」(水族館)を見学
「航西日記」

「航西日記」 松平文庫 M293-1(当館保管)

 「海魚抔の游泳するを横より視、縦よりも視るに便なる為、玻璃器を以て製せし大なる函に潮水を湛え、部類を分ち、海底の沙石・藻草及貝介類の品彙を集め、海底の真状を摸し、魚鱗其中に游泳するを自在に熟視す。甚奇なり」。

[三] 万博会場で軍器を見学
「航西日記」

「航西日記」 松平文庫 M293-1(当館保管)

 万博会場では各国の製品・産物・芸術などが展示された。会場面積の2分の1は仏国が占め、6分の1が英国、プロシア・ベルギーなどは16分の1、日本は128分の1の面積を中国・シャムとで分け合った。英国からは宮殿や蒸気鑵、軍器などが展示された。