Fukui Prefectural Archives

福井県文書館企画展示2010

Planned Exhibition

概 要 展示内容 LINK

知られざる幕末維新 福井藩士の記録

 幕末維新期の福井藩士は国政に奔走した松平春嶽(慶永)の事績をあきらかにするために 『昨夢紀事』『再夢紀事』『続再夢紀事』などの記録を残しました。これらはいずれも同時代の書簡や日記に基づいた信頼性の高いものであり、現在でも維新を知る基本資料となっています。しかし、このほかの記録の中にも、これらを補い新たな事実を教えてくれるものは少なくありません。
 こうした福井藩士の知られざる未刊行資料5点を紹介しています。

会 期

平成22年10月29日(金)-12月23日(祝) ※終了しました

会 場

福井県文書館閲覧室

展示内容

「遺愛帖」
「遺愛帖」
「遺愛帖」

X0148-00001,00002 大家紹嘉家文書(当館寄託)

 「遺愛帖」は、福井藩士鈴木主税の養子重弘が亡父宛の書簡を冊子に仕立て装丁を施したもので、乾・坤の2巻からなります。明治に入って中根雪江が序を記し、春嶽が題字「五絶」を記しました。
 五絶とは唐の皇帝太宗が虞世南(ぐせいなん、太宗に仕えた書家・政治家)を称賛して使用した言葉で、徳行・忠直・博学・文詞・書翰をさし、春嶽は鈴木がこれらを兼ね備えた人物だと高く評価しています。
 書簡の差出人には福井藩の半井仲庵・石原甚十郎のほか、水戸藩の藤田東湖、 熊本藩の長岡監物・横井小楠・津田山三郎などの名前が見られ、 江戸での精力的な働きぶりがうかがわれます。

横井小楠の無念と期待

 嘉永6年8月17日、熊本にいる横井小楠から鈴木主税・吉田東篁にあてた書状です。6月に来航したペリー艦隊への幕府の対応についての意見がのべられています。なお、鈴木は7月19日に江戸に出立し、吉田は福井に残っています。

横井小楠から鈴木主税・吉田東篁にあてた書状
横井小楠から鈴木主税・吉田東篁にあてた書状
横井小楠から鈴木主税・吉田東篁にあてた書状
横井小楠から鈴木主税・吉田東篁にあてた書状
横井小楠から鈴木主税・吉田東篁にあてた書状

一書拝呈いたします。
 秋冷の候となりましたが、御両家のお殿様にはますますご機嫌よろしくお喜び申し上げます。両賢君お二人とも御安祥にて御勤めのこと、なによりめでたく存じます。
 さて、吉田(東篁、福井藩儒者)君からのお手紙を早速拝受、本多(修理、福井藩家老)君・鈴木(主税)君が七月 十九日頃に国許(福井)を出発なされ、吉田君には追って江戸に向かわれるとのこと、今頃は江戸に御到着のことと存じます。
 今はまさに天下の一大事であり、志ある者は身命を投げだして奉公すべき時節、藤田(東湖、水戸藩士、斉昭側近)・ 戸田(蓬軒、水戸藩家老)も小石川(の藩邸)に参上したと聞いておりますので、きっと(両名と)お会いになったことと存じます。
 老公様(徳川斉昭)がお出ましになっても幕閣を挙げて頑固な俗論にかたまり、十のうち六・七は和議を申し立て、今もって国としての方針が決まらないとお聞きし、さてさて情けないことだと深く心を痛めております。大広間詰めの大名(外様)の方々はどのようになさっているのでしょうか、たいへん気遣いなことと存じます。なにぶん不安定で心もとないことではありますが、志のある者は身命を捨てて国のために働きます。
 そこで老公におかれてはいつものお心(攘夷)をしっかり持たれ、そうすれば三百年にわたる古く凝り固まった考えや、遊楽(にふけって国家をかえりみない状況)を一気に打ち崩すことができ、幕府を中興するまたとない好機がやってくるのです。
 そこで熊本の有志、(家老)長岡監物をはじめ、私も一刻も早く江戸に向かい、お力になろうという気持ちを一途に持っているのですが、御承知の通り熊本藩は旧態に凝り固まっており、それが全くかなわない状況です。実に悲しく嘆かわしいことと、どうぞお察し下さい。
 そこで津田山三郎(さんざぶろう)が急ぎ江戸に向かいますので私の考えは同人からとくとお聞きくださいますよう、ひとえにお願いいたします。なにぶんにも事情をお察しなられて失敗がないようお考えくださることを願うばかりでございます。以上つつしんでお知らせいたします。

(嘉永六年)
 八月十七日 横井平四郎(小楠)

鈴木主税様(東篁)

吉田悌蔵様

尚々、吉田君がまだ江戸に向かっておられないかも知れませんが、御連名でお手紙を差し上げます。幕府の対応やアメリカからの返答などについての我々同志の建議は津田からお聞きください。いずれ近いうちにお目にかかれますよう、御配慮のほど、ひとえにお願いいたします。以上

参考文献 松浦玲『日本の名著30 佐久間象山 横井小楠』1970年

 文面からは小楠が老公様(前水戸藩主徳川斉昭)と同様、攘夷を唱えているようにも取れますが、実は小楠は「有道の国」には通信を許し、「無道の国」には拒絶すべきと考えていました。小楠がアメリカを非難する根拠は、通信や通交を認めないなら軍艦で迫るという態度やみだりに(日本が外交の窓口と決めていた長崎でなく)浦賀に来航したことにあります。
 熊本藩から出府を認められない無念の思いとともに、自らの考えを余すことなく手紙に記すことにより、小楠の鈴木に対する評価の高さと期待がうかがわれます。

ペリー来航直後の手紙

 江戸にいた福井藩医半井仲庵(なからいちゅうあん)から福井の鈴木主税(ちから)あてに出された手紙です。
 半井は幕府、老中阿部正弘が前年(嘉永5年)から オランダを通してペリー艦隊の来航を知っていたにもかかわらず、何一つ手を打てなかったことに対して非常に落胆しています。
 一方でアメリカ側の通商希望について警戒感を示すなど、国の行く末に対し率直に自らの考えを示し、医師でありながら甲冑(かっちゅう)を新調し、ことと次第によっては立ち向かおうと意気込んでいる様子がうかがえます。
 また、こんな大事のさなかにあっても、鈴木が冷静に状況を判断して三国に出向き、1万2千両の資金を調達したことが大評判となっており、このように現実的な判断ができる鈴木に江戸に来てほしいと結んでいます。

半井仲庵から福井の鈴木主税あてに出された手紙
半井仲庵から福井の鈴木主税あてに出された手紙
半井仲庵から福井の鈴木主税あてに出された手紙
半井仲庵から福井の鈴木主税あてに出された手紙
半井仲庵から福井の鈴木主税あてに出された手紙

一書拝呈いたします。暑い日が続きますが皆様そろって御健勝のこととお喜び申し上げます。(こちらも皆元気なので)ご安心ください。
 さて、東北の大事件(六月三日のペリー艦隊の来航)にはほとんど肝をつぶさんばかりでした。福井でもさぞ大いに憤慨していることとうわさをし、想像しております。もし、良いお考えがあればお知らせくださいますようお願いいたします。
 元来昨年(嘉永五年)から、今年(ペリー艦隊の)船が来ることはオランダ人から内々に話があり分かっていたことです。ところが何の備えもできず、結局のところ話し合いだけで大砲の一発も撃たず、決まっていることとはいえあまりにも無気力です。すでに異人連中はそのことを見通しているのは何とも口惜しく、憤りを抑えることができません。
 再び異国船がやってきた場合どのように対処するのでしょうか、朝廷のお考えはどのように決まったのか、さまざまな憶測が入り乱れて一向に人心が落ち着きません。
 その上幕府でも驚くべき沙汰(近々御発表になるという噂です)があるということもあり、なんという運命かと嘆くことこの上ありません。福山侯(老中阿部正弘)もこの度は対処が悪く、右往左往しているような状況です。(そこで政治の主導者を)変えようにも適当な人がおらず、この時とばかり水戸老公(前水戸藩主徳川斉昭)が出られて政治を主導なさるならば、皆の気持ちもまとまるのでアメリカも恐れるに及ばないということになるでしょうが、これ(斉昭が政治の中心となること)もなかなか覚束ないことです。
 それはともかくとして、せめて当福井藩だけでも一致団結して人々が驚嘆するほどの戦いをしてみたいものだと思いますが、つくづく考えるとこれもまた覚束なく、ためいきがでるばかりです。元より慣れないことなので不都合なことがあるのはもっともですが、ただ人々の気持ちが一つになることを望みます。しかし陣中の様子を伝え聞きますと、とかく気持ちがバラバラで聞くに堪えないことです。
 飛州公(筑後柳河藩主立花鑑寛)をはじめ、有力な方々が一、二到着されましたが、なかなか軍議もうまくいかないようですので、及ばずながら(慶永公が)時々飛州公を励ましているような次第です。このようなときに貴方が江戸におられないのは非常に残念です。天孫(福井藩側用人天方孫八)を少し若くして(慶永公の)側においておきたく、また、中雲殿(不詳)も大砲遣いについては長じていて申し分ありませんが、人心を奮起させ、百人力と勇気づけるようなことについては甚だ不得手です。さればとて、御一人様(慶永公)はこのような事情を御承知になられず、実に御気の毒なことと唯々ひそかに涙を流し愛軒(石原甚十郎)ともいろいろ話し合い大きなため息をつくばかりです。(儒者の吉田)東篁様からもこの(嘆かわしい)気持ちを申上げ、斉昭公の御出現を周旋するなどしておりますが、なかなか難しいことだと御理解ください。
 天がわが国を見捨てないのであれば、この(困難な)時に豪傑の大将が出現するように祈るほかはありません。今月十五日から(アメリカ大統領フィルモアの国書の)翻訳が始まっていますが今もって作業が全く進ます、杉田(成卿、玄白の孫)も毎日登城しているとのことです。もっとも詳しいことはわかりませんが、今回の国書は特別無理難題を言ってきていることはなく、ずいぶん趣意はわかりやすいということです。アメリカは建国以来日が浅く、役立つ品も少なく困っているので何とか年限を区切って試しに交易をしてみたく、もし日本に利益が少ないならばいつでもやめると言っているようですが、これは彼らの策略で、のちどのような害があるか計り知れません。
 さて、私は福井を発つ前に御配慮をいただき、(そのお金で、江戸に来てから)新しく甲冑を作りました。ほどなくこの甲冑を身につけるような状況ですが、このようなときに自前のものがないようでは恥ずかしい限りですが、おかげで甚だ心地よく、本当に感謝いたします。
 いざとなれば僧形ながらおそらく(相手に)背は見せない覚悟であり、どうかご安心ください。おついでの際に大崎氏にもよろしくお伝えください。
 申上げたいことはまだまだございますが、それは次回のお手紙にいたしたく存じます。
恐々頓首

(嘉永六年)
   六月二十八日 南陽(半井仲庵)
             純淵賢契(鈴木主税)

追伸 愛軒もいたって健康で、日々話しあっております。このような一大事の時に(石原が)一人居残りを仰せ付けられたことで、藩庁はいたって安心です。
○これ以前に小荷駄奉行を仰付られたときに一時騒動がありましたがなんといっても頼もしい人物です。 勝十(勝木十蔵)の評判はますますよく、万端早めにとりまわし非常に良い具合です。
 有司の方々が出府して内殿まで混乱しているような状況であり、都合よくいけばよいのですが、愛軒は大変心配しております。(愛軒の)御実家によろしくお伝えくださいますようお願いいたします。(江戸詰の大道寺)七右衛門様にはただただこの一件について頭を悩ませておられることと拝察いたします。お互いにこのようなときの心配事は如何ともしがたく思います。
 (吉田)東篁にはこの度無沙汰をいたしました。ついでがありましたらよろしくお願いいたします。
 今般(福井の)御城下では江戸の大事件(ペリー艦隊来航)の時、貴君は急を聞きつけて三国へおいでになり、一万二千両の金子を調達されたということです。こちら(江戸)でもそれが伝わって大評判です。御留守(福井)を守ってもほしいのですが、それよりはこちらに先鋒としてお越し願いたく存じます。なかなか折り合いがつかず当惑千万です。
不備

復元「枢密備忘」

 筆者は春嶽の第一の近臣中根雪江(せっこう)。現在では所在がわからなくなってしまった幻の記録です。
 今回、東大史料編纂所維新史料綱要データベースを利用して「大日本維新史料稿本」に分散して採録されている写しから、文久2年12月の部分を復元してみました。
 ここからは12月5日、江戸常盤橋邸での春嶽と龍馬の出会いに先立って前日には面会願が出されていたこと、15日には横浜探索に功があった近藤長次郎(勝海舟門生)に対して10両が渡されたことなどがわかります。 

坂本龍馬と福井藩関係記事(文久2年12月)
朔 日 一長州高杉晋作来り攘破約論有之
四 日 一①土州間崎哲馬・山下龍馬・[空 白]御逢願罷出拝謁相願ふ、明晩を約ス
一武市半平太拝謁今晩被仰付筈之処、御帰殿後御認物御用ニ付御断相成
五 日 一御帰殿之上、昨日相願土州間崎哲馬・坂下龍馬・近藤長次郎へ御逢有之、大坂近海防禦之策を申立候事ニ而、至極尤成筋ニ御聞受被遊
六 日 一③今朝御出殿前武市半平太へ御逢有之、御取込故御目見而已ニ而委細者嶋田近江迄、(下略)
八 日 一桂小五郎罷出、尾老公之事、対州之事、小楠之事、嶋田近江迄及内話由
九 日 一②坂下龍馬・近藤昶次郎罷出、建白書一封指上之 但、摂海之図  十一日指上
十一日 一土州人来訪、取込居候付不逢、春蔵(桃井)・斎藤(弥九郎)へ指図し遣ス
十四日 ○近藤昶次郎大ニ暴発を恐れ、同志横浜へ罷越警衛之由
十五日 一近藤昶次郎儀、先日来陰忠不少、貧生之儀故、何となく金十両被下候、勝麟迄相渡由   但、昶次郎横浜へ罷越、捜索之処、暴客三人計罷在候ニ付、諭解ニて 為引取候由、又橋公を遮らんと箱根辺ニ罷在候者共も、追々人を遣し是 亦為引払手筈之由

 「大日本維新史料稿本」(東大史料編纂所維新史料綱要データベースを利用)の各歴史項目に分散して引用されている「枢密備忘」の記事を日付ごとに整理し復元を試みると、文久2年12月に限っても次のような事がらが新たにわかりました。
 すなわち、龍馬たちは、①前日4日に面会の予約をしていること。②9日にも訪問したが、春嶽には逢えなかったこと。③同様に面会を希望した土佐藩の武市半平太は、日をかえて面会は許されたが、御目見えだけで、直接意見を言上することはできなかったこと。とくに長州の高杉晋作、桂小五郎も日をかえて願い出ていたが、ともに春嶽には面会できなかったこと、などです。
 それだけに、直接「御逢有之(おあいこれあり)、大坂近海防禦之策を申立」ることができ、さらに「至極尤成筋(しごくもっともなるすじ)ニ御聞受被遊(おききうけあそばされ)」との春嶽の感想が残されたこの日の龍馬たちの会見は、記録した中根雪江にとっても特別なものであったことがわかります。
 このほか、龍馬・近藤の名前が山下・坂下、[空 白]・長次郎・昶次郎とそれぞれ変化しており、少なくとも記載した中根にとっては、この時まで両者が馴染みでなかったことがわかります。
 さらに勝麟太郎を通じて、昶次郎に金10両渡されていることも、龍馬たちと福井藩の関係を知る新たな事実です。

「上京中日記」 国立国会図書館蔵

 「上京中日記」は、文久3年(1863)6月から9月にかけて、京都にあって他藩との応接にあたった福井藩士青山小三郎が記した日記です。勝海舟の代理として龍馬が提供した情報が、その語り口を想像させる臨場感のあることばで書きとめられています。

「上京中日記」
「上京中日記」
「上京中日記」

十五日 小笠原(長行)老中一条について、長州人が大憤発して今晩にも踏込み刺殺しようという考えで龍馬のもとへ四、五人やってきて議論になった際、龍馬の説は全く不同意で、たとえ一人の唐閣(唐津藩世子小笠原長行)を殺そうとも、幕府が土台から 変わることなくしては、また一老中のみである、そうであるならば、所謂(いわゆる)前門の虎を防ぎ、後門の狼を容れるがごとく結局先行すべき事と激論におよび、かりに同意はしたけれども、一度実行を決めたことになので、今晩にもいかなる事があるかもわからない、併せて小笠原老中にあっては、どうして出坂 されないのか、赤馬関(あかまがせき、下関)のこと、この先どうするつもりかと詰問したところ、最早右のようになった上は防長の二国は曠土(こうど)赤原となるまで死力を尽くして決戦の見込みの由、そうとはいえ攘夷決評の御布告があってのことなので一□((放カ))(砲撃)を決めていることは諸藩の及ばざることのみならず、幕府と対決に及ぶといっても、直(正義)は長州にある、それゆえ一刻も早く談判無くては坐(ざ)して長州の覆滅(ふくめつ)を忍び見るのみ、今一刻も早く談判に及ぶならば長州はどうして夷人(のものになろう)か、昨十四日、天保山沖へ英鑑(艦)が定泊した際因州より二、三発の空砲を打った由、同藩人が葛(勝)先生の旅宿へこのことを知らせてきたので塾生二、三人が追い懸けて行き、暫時麁忽(そこつ、軽率)な事をしてはならない、もっとも海底は遠浅なのできっとバッテーラ(小船)に乗って来るだろう、其節手真似(ジェスチャー)ででも其段応接におよび、速かに還すべしと因州人へ坂下(さかもと)が談行したところ因州人も同意 して、それのみで出航となった、初め兵庫へ上陸、のち天保山へも上陸の由龍馬曰く、この節、そもそも如何の訳合で老公(春嶽)の御登京がないのか、実に不審のようすで頻(しき)りに詰問するので御国論(挙藩上洛計画)について申し聞かせたところ大喜びで、一両日の内に土藩(土佐藩)の者を御藩(福井藩)へ差し出す心積りのところ、その御説を拝聞してこの上ない歓びと大悦の模様で、最早右説のごとくは全く葛(勝)先生の心組みと同じで、龍馬に申し残していた由、薩州一事、甚(はなはだ)懸念の由、過日 英人が薩州へ来た際に大いに馳走をしたという風聞、実に言語と形迹(けいせき)とが甚違い、大いに懸念の由、これも葛殿の見込みの由、水戸も同様に甚疑わしく思う、何分先年の見込みをもって年長英明之旧見があるかどうか甚不審の由、葛殿見込みの由、伊達五郎(元和歌山藩士)も、甚信用しがたい人物なので必ず御用心あるべき事、何分(春嶽公の)一刻も早い御登京ありたき事私共も一両日のうち登京の上、必死周旋を致す心組みである事、土州老公(山内容堂)へも何分御人を遣され登京を御進めくださるよう願いたい事、 一橋(慶喜)様にももっともの御所置の処如何在らせられたるや、今日にいたり怪しむべき事と大いに懸念の事

「風説書」

 元治元年(一八六四)暮れ、突然の江戸召喚により軍艦奉行を罷免された勝海舟を訪れて、先に幕府に売り渡した福井藩の蒸気船黒龍丸の売渡金をめぐって、勝に余計な疑惑がかからないよう相談した際の報告書です。
 突然の江戸召喚で金銭的にも困った勝が、神戸の屋敷や大坂での借財の整理方法について語り、その際、前年(文久3年)5月に龍馬が福井藩から借り出した海軍塾建設資金1,000両の残金と考えられる500両について話がおよんでいます。

「風説書」

(家財等を取り集めて、おおむね千) 五百金(両)くらいありましたが、当時売り払うにも 未だその時節になきやに存じましたので、しばらく見合わせていました。
 ついては昨年御国(福井藩)から拝借し、現在大坂町奉行に預けてある五百両について、今回兵庫を出立 した際の心組みとしては、このたび御国も過分の御入費ゆえ、取り出して上納したいと存じておりましたが、ただ今にては右等の事情ですので不本意ながら、この預け金のうち三百両をあらためて拝借したいので、その段御含み置き、なおまた御国にも申越くださるよういわれたので、この金は国許では最初から返済の当てはしていないはず、どのように使っても毛頭頓着(とんちゃく)しない、ほかに入用ならば、いつでも国許(くにもと) へいってきてくださいと申し置きました。

 「海舟日記」によると神戸の塾建設費用は約400両でした。
 龍馬が1,000両を借り出した2ヶ月後の文久3年7月には、龍馬らが大坂町奉行に500両を預けたことがわかっており(大坂町奉行から勝宛の手紙)、建設費などを差引いた500両が大坂町奉行へ預けられ、それがそのまま残っていたと考えられます。
 元治元年の暮れ、黒龍丸と海軍塾を失い、さらに資金もとりくずされて、前年五月の資金貸出しの際に勝とともに龍馬や福井藩が描いた海軍構想は、ここであえなく頓挫(とんざ)してしまいました。

側向頭取 「御用日記」

 春嶽の日常にかかわる側向(そばむき)では側締役(そばしまりやく)に次ぐ重職であった側向頭取が交替で認めた執務日記。1859年(安政6)~68年(明治元)の10年間にわたる春嶽分の16冊。起床の時刻や体調、登城等の時刻や装束、従った家来の氏名、食事の場所や行事の際の饗応、家族の動向、来訪者とその接遇、手紙の発着や贈答の記録、入浴・就寝の時刻まで、春嶽の日常の詳細が日なみに記録されています。
 「御用日記」には来訪者との話の内容は記されていませんが、誰とどのような配置で会い、その際どのような接遇がなされたかが詳しくわかります。春嶽をめぐる様ざまな人物との交流を記録した貴重な資料です。

「御側向頭取御用日記」 松平文庫(福井県立図書館保管)
「御側向頭取御用日記」
「御側向頭取御用日記」
側向頭取とその仕事

 側向頭取(そばむきとうどり)は、春嶽の側近にあってその日常にかかわる側向では側締役(そばしまりやく)に次ぐ要職で、手元費用の管理や小姓頭取・小姓などを監督しました。
 この「御用日記」の時期の春嶽附側向頭取は以下のとおりです。

萩原金兵衛 1859年(安政6) 1月~62年(文久2)4月
井上弥一郎 1860年(万延1) 1月~61年(文久1)1月
香西敬左衛門 1860年(万延1) 4月~68年(慶応4)
高田孫左衛門 1861年(文久1) 5月~63年(文久3)7月
大井弥十郎 1862年(文久2) 5月~63年(文久3)6月
日比彦之丞 1863年(文久3) 7月~同年12月
高村新五兵衛 1863年(文久3)11月~68年(慶応4)
上坂藤大夫 1867年(慶応3) 8月~68年(慶応4)
春嶽の多忙な一日 江戸 1862年(文久2)12月5日条
「御側向頭取御用日記」

 坂本龍馬がはじめて春嶽に出会った文久2年(1862)12月5日はどんな一日だったのでしょうか。
 起床は五時(いつつどき、午前8時)。神仏に拝礼した後すぐ裃(かみしも)で江戸城へ登城。衣冠に着替え勅使に応対しました。この時、政事総裁職であった春嶽は攘夷督促のために入城した三条実美らに終日対応しており、勅使の宿舎であった「御馳走所」に寄ってから五時(午後8時)に常盤橋(ときわばし)藩邸に帰殿。
 このあと大奥で食事をすませた夜遅くに龍馬ら3名と面会したのでした。

春嶽の手許金から一五両 京都 1863年(文久3)2月27日条
「御側向頭取御用日記」

 春嶽は将軍上洛に先立って2月4日から京都に滞在していました。
 前々日に脱藩の罪を赦されたばかりの龍馬に対して、春嶽の手許(てもと)金から一五両の「御手当」が側用人中根靱負(ゆきえ)を通して渡されたことが記されています。

「大事の秘密」を言上 京都  1863年(文久3)11月7日条
「御側向頭取御用日記」

 この時、文久3年(1863)11月7日には、龍馬は京都東本願寺で春嶽に面会しました。春嶽の日記「京華日録」では「大事之秘密」を言上したとされていますが、残念ながら具体的な内容はわかりません。
 「御用日記」では、4時(午前10時)過ぎ、土佐藩坂本龍馬がまかり出で、お会いしたいと願ったので御居間の二の間へ御出座、龍馬は溜りの間までまかり出で、御用あり、側近の酒井十之丞・嶋田近江が付き添い、龍馬の言上がすんで後、表の控所において十之丞らと話し合い、その際御菓子をくだされたとあります。

慶応3年10月、福井にやってきた龍馬は? 福井 1863年(慶応3)10月28日条
「御側向頭取御用日記」

 坂本龍馬は慶応3年(1867)11月15日に京都で暗殺されてしまいますが、 この前月、10月28日に容堂(土佐前藩主)の手紙を届けに福井を訪れています。
「御用日記」では、手紙を伴圭左衛門が受け取り、 「当局までこれを差し上」げたと記され、 才谷梅太郎(龍馬)らは直接春嶽に面会できなかったことがわかります。
 この時、応接した村田巳三郎に龍馬は、春嶽の一日も早い上京を求め、 さらに30日には朝から三岡八郎(由利公正)と会い、 夜中までかかって新政府の経済政策について話し合ったとされています (『越前藩幕末維新公用日記』)。

人物相関図

人物相関図

青山小三郎の在京応接記録 「在京中日記」(手前)と青山あて勝海舟書状(奥)

青山小三郎の在京応接記録 「在京中日記」(手前)と青山あて勝海舟書状(奥)

関義臣の探索記録 「風説書」

関義臣の探索記録 「風説書」

「遺愛帖」「風説書」「御用日記」は、カラー複製本で閲覧できます。

「遺愛帖」「風説書」「御用日記」は、カラー複製本で閲覧できます。