10 工業開発と「臨工」(2) | |
しかし、同年末の第1次石油危機の発生は、当初の期待に冷水を浴びせる事態を招きます。重油依存度の高い日本のアルミ精錬業は存立事態が困難となり、また分譲予定価格の高騰により立地予定企業も相次いで進出を取りやめました。この結果、用地造成のための起債額約400億円に対する年々30億円をこえる元利償還が残され、また工業用水道も巨額の赤字が累積していきます。 知事の政治責任を追及する声が高まるなかで、県も必死に企業誘致を進めました。しかし、減量経営に苦しむ民間企業には進出の余裕はなく、結局、石油備蓄基地建設や原子力関係事業者への用地売却といった国策絡みの事業や企業の誘致により、当面の危機の打開を図ることになりました。 福井臨工は、80年代なかばの景気好転とともに近畿圏との距離の近さと相対的な地価の安さを背景に企業進出が増加し始めました。財政的な危機も解消され、ようやく陽の当たる存在となったのです。 |
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![]() ![]() 1988年(昭和63)12月のマスタープランの見直 しにより、福井臨工の事業内容に「都市的機 能用地」「レジャー関連を含む産業用地」が付 け加えられた。翌89年1月31日、福井臨工は 「テクノポート福井」と改称され、サッカー場や 宿泊施設・商業施設が並ぶようになり、福井 港周辺地域は県民の憩いの場となっている。 ![]() 中川知事は、1980年代に入ると、原電建設の 同意と引き換えに国から「県益」を引き出すこ とに努めた。とりわけ嶺南地域の振興を重要 課題とみなし、その産業振興の中核として、地 域振興整備公団を事業主体とする中核工業 団地の誘致を進めた。 |
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![]() ▲敦賀湾PCB汚染で集会を開く漁業者たち(1973年6月) 県庁前広場にて。 福井新聞社提供 |
■福井県の公害問題 |
4大公害事件など日本の環境汚染の劣悪な状況が国民的関心の的になるなかで、1960年代後半には県内の環境汚染に対する県民の関心が一挙に高まった。 福井県の代表的な公害事例としては、「黒い水問題」と呼ばれた西野製紙金津工場の廃液による竹田川および九頭竜川河口海域のヘドロ問題、日本亜鉛鉱業中竜鉱業所の廃液・廃滓による水田のカドミウム汚染問題、日信化学工業武生工場の廃液による日野川の有機水銀汚染問題、東洋紡績敦賀工場の廃液による敦賀湾PCB汚染問題などが挙げられる。 このほかにも、「公害国会」が開催された1970年(昭和45)を契機として、大気汚染や水質汚濁、騒音問題、地盤低下問題など、県内各地で被害が取りざたさ れた。 県民の公害反対の声も急速に高まり、とりわけ亜硫酸ガスやフッ素化合物を排出する福井臨工造成計画に対しては、地元住民や周辺自治体などの間に反対の声が広がり、公害反対住民組織も多数結成され、県下の公害反対運動は頂点に達した。 |