8 人絹から合繊へ(1)
県下の織機台数(1947〜88年) 40KB
 戦時中の企業整備や戦災により打撃をうけた本県の人絹織物業でしたが、敗戦直後のヤミ取引の横行もあって息を吹き返し、1950年(昭和25)6月の朝鮮戦争の勃発にともなう特需ブームにより、本格的な復興をとげました。しかし、翌年3月、人絹相場の暴落が始まると、県下を代表する商社や機業の経営悪化や倒産が発生し、以後、人絹織物業は深刻な不況に陥りました。そして、50年代を通じて、織物業は大きな構造転換に直面します。

 戦後の人絹糸市場には、東レ・帝人・旭化成・倉レ・日レ・東洋紡の6社による寡占的な供給構造が成立していました。これら人絹糸メーカーは、安定的な糸の供給先を求めるとともに、最終消費市場における製品の品質を重視して大量生産と品質管理に耐えうる優良機業の確保をめざし、糸の供給特約を結んだ商社を介して、産地織物業の系列化を進めたのです。

 系列化の動きは、流れから取り残され苦境にあえぐ中小機業主たちの大きな怨嗟を招きました。また、産地の主体性の喪失を危ぶむ声もしばしば聞かれることになります。しかし、系列化が産地の競争力の強化を促し、その結果、福井県が国内の織物産地の筆頭としての地位を長く維持することになった点は否定できません。

 とくに、福井産地では福井精練加工や酒伊繊維工業などを中心に、樹脂加工・特殊加工など染色加工部門の技術革新が先行しており、より消費市場に近い「川下」から製織部門への品質管理の強化の要請が高まりました。その結果、原糸メーカー・商社・染色加工・製織および製編企業が一体となった新規商品開拓の協力体制が組まれるとともに、メーカーによる資金援助や技術支援を得て、製織部門の技術革新も進みました。こうした構造転換を前提として、60年代に入るとナイロン、ついで60年代なかばにはポリエステルが主力商品として登場し、福井産地は合成繊維一色に塗り込められていきます。

 1967年には紡績・織物業の設備過剰の解消と競争力の強化を目的として構造改善事業がスタートし、71年には対米繊維輸出規制が始まります。また、73年の第1次石油危機により本格的な人員整理が行われましたが、福井産地は輸出市場の重点をアメリカから中東へとシフトしつつ、国内の代表的長繊維織物産地としての命脈を保ち続けました。とりわけ60年代末から始まり、70年代末に急速に進んだウォータージェットルームの導入は、合理化を進める有効な手段となりました。

 しかし、80年代なかばになると、原油価格の暴落による中東市場の衰退と先進国市場における天然繊維嗜好の高まり、そして韓国・台湾といった低賃金を利用した後発国の急迫により、福井産地も大きな苦境に直面することになったのです。
ダブルツイスター
▲ダブルツイスター
合繊の時代を迎えると、さまざまな断面加工糸
に撚糸工程で加撚・加熱・ 解撚を施すことで、
かさ高で伸縮性をおびた織物の製造が可能に
なった。それまで裏地中心であった福井県の織
物はようやく表地分野へ進出を果たし、1960年
代後半以降いくつものヒット商品を生み出した。
60年代には仮撚機、70年代にはダブルツイス
ターの導入が急増した。
          勝山市 ケイテー株式会社提供
 ウォータージェットルーム
 ▲ウォータージェットルーム
 ウォータージェットルームは、それまでの杼に代わって水流により緯糸を送 り込む方式の自
 動織機。第1次石油危機後の合理化投資の中心として急速 に普及し、これにより福井県の
 合繊織物の労働者1人あたり生産高は、1970年の2,222.7平方メートルから85年の4,725.5平
 方メートルへと著しい伸びを示した。               勝山市 ケイテー株式会社提供

←前テーマ→次ページ目次