4 労働運動の展開(2)
 福井県の戦後労働運動の特徴は、全国的にみても最低ランクに位置する労働条件の克服を求めた中小企業労働者の組織化が、2つのセンターの勢力拡大競争を背景にして、これ以後急速に進んだ点にあります。

 とくに全繊同盟や、金属機械部門における全国金属(全金)やバス・タクシー部門における全国自動車交通(全自交)などの加盟労組を中心に、最低賃金制の確立を掲げつつ中小企業における労働組合の結成と強固な闘争への取組みが進められました。労働組合数は50年代後半から急増し、組織率は61年には40%をこえました。他方、経営者側の抵抗も激しく、2つのセンターを背景に労組が分裂して争い、争議が複雑化・長期化し、福井県ではこの時期に戦後2度目の争議件数・規模のヤマが形成されることになります。

 60年代後半になると、福井放送・福井新聞といったマスコミ争議、経営不振を背景とした福井鉄道争議など衆目を浴びる争議も発生しますが、闘争の主力は春闘を中心として年々の労働条件の向上に注がれるようになりました。その頂点は、第1次石油危機後の74年の国民春闘で、県内平均賃上げ率32.9%という史上最高の賃上げが実現されました。しかし、これをピークとして、県内の労働争議はたちまち火の消えた状態に転じます。雇用不安が続くなかで、労働者は、争議により経営者側と対峙するのではなく企業の生産性向上に協力することで雇用の確保を求める方向に精力を注ぐことになったのです。
  1974年国民春闘県民大集会
  ▲1974年国民春闘県民大集会
  1973年(昭和48)秋の石油危機による物価の高騰に対し、74年春闘
  では3月7日、初の県労評・福井地方同盟共催による春闘県民大集
  会が開催された。         福井県平和・環境・人権センター提供

  福井新聞争議
  ▲福井新聞争議
  1965年(昭和40)の日韓基本条約締結、ベトナム戦争の
  拡大を背景に、政府・財界による「偏向」報道批判がおこり、
  マスコミ各社では組合運動への攻撃が強まった。写真は、
  65年7月、処分に抗議する福井新聞労組・支援者とこれを
  包囲する警官隊とが対峙している状況。
                   福井市 小木曽美和子氏提供


労働争議にともなう労働損失日数(1956〜95年) 労働争議にともなう労働損失日数(1956〜95年)
労働損失日数とは、争議に参加した労働者の延べ人数
に対応する労働日数であり、年間の争議の規模を示す
指標である。70年代なかばを境として、その前後の労使
関係の変化が一目でわかる。『福井県労働運動史』『福井
県統計書』による。

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